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私たちは落胆しない(二コリント4章7〜18節)

「だから、わたしたちは落胆しません。たとえわたしたちの「外なる人」は衰えていくとしても、わたしたちの「内なる人」は日々新たにされていきます。わたしたちの一時の軽い艱難は、比べものにならないほど重みのある永遠の栄光をもたらしてくれます。わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。」(二コリント4章7〜18節)
ここに「たとえわたしたちの「外なる人」は衰えていくとしても」とあります。体や心の弱り、衰え、私たちはそのことを、身を持っておぼえる、感じるのです。しかし、「わたしたちは落胆しません」とあります。落胆せざるを得ない状況、現実なのに、なぜ、落胆しません、と言うことができるのでしょうか?何か自分に発破をかけて、あるいは気合を入れて、言っていることなのでしょうか?強がりでも言っているのでしょうか?いいえ、そうではありません。この落胆しません、という言葉はこの章の1節にも出ていました。そこではこのようなことが記されています。
「こういうわけで、わたしたちは、憐れみを受けた者としてこの務めをゆだねられているのですから、落胆しません。」(二コリント4章1節)
なぜ、落胆しないのでしょうか?「憐れみを受けた者」と記されているように、憐れみを受けたから、というのです。この憐れみというのは、神様の憐れみということです。神様は私たちの弱さをご存じです。その私たちを神様は憐れみ、私たちという「土の器」に「宝」(同7節)を送ってくださったのです。だから、神様が私たちに願っておられることは、その宝を受け取るということです。神様の憐れみによって、イエス・キリストという宝を受け取ってほしい、ということです。この宝を、イエス・キリストという宝を受け入れるならば、私たちは落胆しないのです。

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