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ステファノが見ていたもの(使徒言行録7章54節〜8章3節)

使徒言行録7章には、ステファノの説教が記されています。そもそもステファノが律法と神殿をけなした、ということから、最高法院でその訴えに対する弁明として語る場面でしたが、弁明というよりは聖書の言葉そのもの、説教が語られていました。しかし、その後半の内容から分かってきたことは、やはり、ステファノの語ったことは、説教でありましたが、弁明でもあった、ということです。それも、単なる自己弁護ということではなく、聖書が、あなたがたが訴えている、あなたがたが問題にしていることに対してどう語っているか。聖書からそのことを答えていったのでした。
これを聞いた人々の様子がこのように記されています。「人々はこれを聞いて激しく怒り、ステファノに向かって歯ぎしりした」(使徒7章54節)。彼らはステファノが語ったことに対して、激しく怒った、ということです。それと対照的なのがステファノでした。「ステファノは聖霊に満たされ、天を見つめ、神の栄光と神の右に立っておられるイエスとを見て、「天が開いて、人の子が神の右に立っておられるのが見える」と言った」(使徒7章55、56節)。ステファノは聖霊に満たされ、天を見つめていた、というのです。そこには神様の栄光と神様の右に立っておられる主イエスがおられた。その主を見た。だから、ステファノはこう言っています。「天が開いて、人の子が神の右に立っておられるのが見える」。人の子、つまり、イエス様が見える、というのです。このステファノの姿から教えられるのは、ステファノは何を見て生きていたか、ということです。目の前には、ステファノの説教を聞いて、怒りに満ちた人たちがいました。しかし、ステファノはその人たちではなく、天を見つめ、主を見上げていた、というのです。私たち教会は何を見つめて歩んでいるのか?そのことが問われる思いがします。主の言葉を聞き、怒りに満ちている人たちの顔色を見ながら、教会は歩むでしょうか?それとも、天を見つめ、主を見上げて教会は歩むでしょうか?

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