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主が共におられるということ(創世記39章から)

 「しかし、主がヨセフと共におられ、恵みを施し、監守長の目にかなうように導かれたので、監守長は監獄にいる囚人を皆、ヨセフの手にゆだね、獄中の人のすることはすべてヨセフが取りしきるようになった。監守長は、ヨセフの手にゆだねたことには、一切目を配らなくてもよかった。主がヨセフと共におられ、ヨセフがすることを主がうまく計らわれたからである。」(創世記39章21〜23節)
 私たちは自分にとって不幸、不運とも思えることがあると、神は私と共におられないのだろうか?神は私を愛しておられないのだろうか?と思うかもしれません。創世記のヨセフの記事を見てみますと、ヨセフは主人の妻の偽りの証言によって不当にも監獄に入れられることになりました。しかし、神様はヨセフを見離したわけでも、愛していないわけでもありませんでした。神様はヨセフを試練の中に置かれましたが、「主がヨセフと共におられ、恵みを施し・・・」と記されています。監守長からもヨセフは信頼されたことが記されています。神様はヨセフの試練の時も、その状況に応じた助けを与えてくださっているのです。一方、ヨセフも、試練の中で、神様の守りを信じ、腐ることなく、その置かれた場所で誠実に生きていきました。ヨセフ自身、主が共におられることを信じて、それを希望として生きたのではないでしょうか。
 キリスト教の信仰というのは、一見、何の魅力もないもののように思えるかもしれません。信じれば、良いことが起こりますよ、試練などありませんよ、そういうことは言いません。でも、信じてみて分かることは、不幸とか、不運と思える状況にあっても、そこでも神様は見捨てず、共におられる。そして、何の希望もないと思える、人生を投げ出してしまいたくなる、そういう中にあっても、どう生きていったらよいか。そのことを主が私たちに教え、導いてくださることを知るのです。人生山あり谷ありですが、山にある時も、谷にある時も、主が共にいてくださる。そこでも、どこでもやっていけるように教え、導いてくださる。イエス様を信じて本当に良かった。私は心からそのように思っています。

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