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主に仕え続ける信仰(マルコ1章21〜34節)

 イエス様一行は会堂を出ました。どこに行ったかというと、シモンのしゅうとめが熱を出した、ということでその家へ向かったのでした。イエス様はシモンのしゅうとめを癒されます。「イエスがそばに行き、手を取って起こされると、熱は去り、彼女は一同をもてなした。」(31節) ここには主によって癒されたシモンのしゅうとめの様子も記されています。シモンのしゅうとめはイエス様によって癒され、そして一同をもてなした、ということです。「もてなした」とあるところは、最新の協会共同訳では「仕えた」となっています。岩波訳も「仕え始めた」となっています。
 「もてなした」、日本語で訳す場合はこの言葉でも十分だと思います。それをあえて、直訳的に、仕えた、とか、仕え始めたと訳すことで、さらにここで語られていることの意味が分かってきます。シモンのしゅうとめがイエス様に癒され、行なったこと、それはイエス様とその弟子たちをもてなした、ということです。しかし、それはただお客さんがおいでになったので、そのおもてなしをしたということに留まらなかった、ということです。仕えた、イエス様に仕える者となった、ということです。
 「仕える」ということで、エフェソの信徒への手紙6章6、7節にはこのような勧めの言葉があります。 「人にへつらおうとして、うわべだけで仕えるのではなく、キリストの奴隷として、心から神の御心を行い、人にではなく主に仕えるように、喜んで仕えなさい。」 シモンのしゅうとめのもてなしは主に仕えるように人に仕えた、ということです。目の前の人は神様に愛された人、その人を大切にするというのは神様を大切にするということ。そういう心で仕えるのです。また、この「もてなした」、「仕えた」という言葉は継続を意味します。ですから、ここはもてなし続けた、仕え続けた、ということです。仕えるというのは、一時的なものではないのです。継続的なものなのです。私たちはイエス様を信じた。それは一時的なものではありません。これからも信じる。イエス様を信じ続けるのです。

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