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信仰、希望、愛を表わす者として(マタイ5章13〜16節)

 「あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」(マタイ5章13〜16節)
 塩と光、地の塩、世の光の話がここに語られています。暑い夏を過ごしています。熱中症にならないように、こまめに水分を補給するように、と言われます。しかし、水分だけでなく、塩分も必要だと言われます。お読みしました聖書では、塩ということでは、塩味と言われていました。食塩のことです。食塩として使われる塩は料理ではもっぱら隠し味として使われます。塩そのものが目立ってはならないのです。塩というのは、まわりを引き立たせるための役割があるということ、他者を支え、助ける生き方が示されています。
 そして、光。光の話をしているのに、山の上の町のことが例えとして挙げられています。これは当時のユダヤの都エルサレムを指しています。隠れることができない町。私たちも人々の前に隠れることなく、表わしていく存在なのです。それは続くともし火の例えでさらに示されます。ともし火を升の下に置くことはしません。ともし火はまわりを照らす、部屋を照らす役割があるからです。蛍光灯を部屋の下に取り付ける人はいません。それでは意味がありません。天井の方に取り付けます。
 「あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである」。ともし火の火、光は人々の前に表わされるものです。光とは、ここに書いているように、立派な行いということです。私たちが立派な行いをしたら、人々は私たちを素晴らしい人だと言って、あがめるように思いますが、ここにはあなたがたの天の父、神様があがめられるようになる、と書いてあります。ここで言われていることは、光とか、立派な行いというのは、私たちから出たことではない、ということです。神様が私たちに光を与えてくださった。この光というのは何かというと、私は三つのことで表したいと思います。それは信仰、希望、愛です(一コリント13章13節)。神様があなたがたに与えてくださった信仰を、神様があなたがたに与えてくださった希望を、神様があなたがたに与えてくださった愛を人々に表わしなさい。そのようにして、私たち人間は神様を表わす存在とされているのです。

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