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2020年4月19日 主日礼拝(朝・夕拝)説教 「つまずきを越えて」

➡ 2020年4月19日 礼拝プログラム(クリックしてください)

(はじめに)
先週はイースター、イエス・キリストの復活を祝う礼拝を行ないました。キリスト教会の礼拝はイースターから始まったと言われます。主が復活された週の初めの日である日曜日、主は復活された!罪と死に勝利された!そのことを記念して、私たち教会は礼拝を続けてきました。現在は新型肺炎感染の予防のため、日本のみならず、世界中の多くの教会が教会に集まっての礼拝を行なうことができないでいますが、皆さんはそれぞれのご家庭、生活の場で主を礼拝することを続けておられることと思います。皆さんと顔と顔を合わせて、礼拝を行なう日を待ち望みながら、今日も主を礼拝していきたいと思います。

(聖書から)
今朝お読みしました聖書はマルコによる福音書6章1~6節の前半までです。この箇所では、イエス様が故郷にお帰りになった時のことが書かれていました。イエス様の故郷とはどこでしょうか?イエス様がお生まれになった場所、それはユダヤのベツレヘムです。イエス様はベツレヘムでお生まれになりました。そして、ガリラヤのナザレでお育ちになりました(ルカ4章16節参照)。ですから、ここでイエス様の故郷というのは、イエス様がお育ちになったナザレのことです。
イエス様はご自分がお育ちになった故郷のナザレに帰られた時、お一人ではなく、弟子たちも一緒だった、ということです。そのことについて、お読みした聖書には、「弟子たちも従った」(1節)とあります。イエス様の弟子たち、それは何をする人でしょうか。一言で言いますと、イエス様に従う人ということです。イエスを主と信じる人を「キリスト者」、「クリスチャン」と言います。その人はやはり、イエス様に従う人です。
皆さんの中にも、「私はイエス様を信じていますから、イエス様の弟子ですから、イエス様に従ってきました」と言われる方があると思います。私もその一人です。けれども、自分では、イエス様に従ってきた、と思っていたけれど、果たして、本当なのだろうか?と私たちは時に自問自答するようなことがあるのではないでしょうか?
なぜ、このようなことを言うのかと言いますと、自分ではそう思っていても、イエス様はどう見ておられるか、そこが大事なことだからです。イエス様が私たちに願っておられる、求めておられることは考えないでいて、しないでいて、従っているつもりになっているようなことはないだろうか、ということです。実は私たちの信仰の歩みの中では、そういうことは度々あるのではないでしょうか。
ではそういう私たちはどうしたらよいのでしょうか?キリストの体である教会につながることです。そして、聖書の言葉から神様のみ心、思いを聴いていくことです。教会につながらなくでも、自分一人で聖書を研究していけば、それで十分、イエス様のことは分かるし、イエス様の弟子として生きることはできる。そのように考えている方もおられるかもしれませんが、聖書には、そのようなことは書いていないのです。イエス様の弟子として生きる、イエス様に従う。そのためには繰り返しますが、教会につながり、聖書から聴くことです。
さて、今日の聖書の言葉に戻りましょう。安息日、これは土曜日のことです。ユダヤ人はこの日に神様を礼拝しました。ユダヤの会堂で聖書の教えが説かれました。2節には、イエス様が会堂で教えを説かれたことが書かれています。イエス様が語られたことを聞いた人たちの様子がこのように書かれていました。
「多くの人々はそれを聞いて、驚いて言った。「この人は、このようなことをどこから得たのだろう。この人が授かった知恵と、その手で行われるこのような奇跡はいったい何か」」(2節)。ナザレの人々はイエス様の語られることを聞いて驚きました。そして、彼らが言った言葉、その前半の部分を読んでみましたが、彼らはそれをどこから得たのか、と言っています。「この人が授かった知恵」とあります。イエス様の語られた言葉は素晴らしいと思ったのでしょう。また「その手で行われるこのような奇跡」とありますが、イエス様は奇跡を行なわれたのでしょう。これも彼らにとっては驚くべきことでした。
しかし、彼らはイエス様について、このようにも言っています。「「この人は、大工ではないか。マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。姉妹たちは、ここで我々と一緒に住んでいるではないか。」このように、人々はイエスにつまずいた」(3節)。イエス様のことを彼らは知っていたのです。だから、こう言っています。「この人は、大工ではないか。マリアの息子で・・・」。イエスという人がどんなに素晴らしいことを語っても、行なっても、私たちは彼がどういう人物であるか知っている。大工である、マリアの息子である・・・。しかも、私たちは彼のきょうだいのこともよく知っている。そのように言っている彼らについて、聖書は「このように、人々はイエスにつまずいた」と書いています。
私たちはこのような聖書の箇所を読むと、共感するかもしれません。私もイエス様と同じだ。家族に信仰のことを話しても、家族には自分の弱さ、欠点など知られているから、「あなたは信仰を持っても、何も変わらないではないか。立派な生活をしているわけではないではないか」。家族にそんなことを言われたりする。自分のことをよく知っている人たちに信仰のお勧めをすることは何と難しいことだろうか。イエス様も同じような苦労をされたのだろう。だから、この後、イエス様はご自分でもこのようなことを言われたのだ、と考えるかもしれません。「預言者が敬われないのは、自分の故郷、親戚や家族の間だけである」(4節)。
もう一度、人々がイエス様について驚いて言った言葉を振り返ってみましょう。「この人は、このようなことをどこから得たのだろう。この人が授かった知恵と、その手で行われるこのような奇跡はいったい何か」。彼らはイエス様の言葉に驚き、その行なったことに驚きました。そして、それをどこから得たのか、と言いました。どこから得たのか。しかし、彼らはそのことを探ることはしませんでした。なぜなら、彼らは、自分たちはイエスのことは知っていると思っていたからです。
今日の聖書の箇所で、キーワードと言えるのは、この「どこから得たのか」ということです。そう思ったなら、どこからなのか、探っていくのです、求めていくのです。しかし、彼らは探っていくことも、求めていくこともしませんでした。あの人は、私たちの知っている大工に過ぎない、マリアの息子に過ぎない。そこに留まってしまったのです。
私たちは自分の家族のことをどのように見ているでしょうか。例えば、自分の子供については、この子は私の子、自分の連れ合いについては私の夫、私の妻・・・。つまり、私のもの、私の所有物のように見てしまってはいないでしょうか。しかし、信仰の目から見るとそうではないのです。この子は、この人は、神様が造られ、神様が愛しておられる人。そのような視点から見ていくならば、私たちの家族との関係が変わってくるのではないでしょうか。私のものではない。あの人、この人も神様のものなのです。
今日の説教題は「つまずきを越えて」としました。イエス様の故郷の人々はイエス様につまずいた、とありました。でもそれはイエス様が問題なのではありません。人々はイエス様を私たちの知っている大工の息子であると、自分たちの枠の中だけで見たのです。それがつまずきのもとだったのです。彼らは、イエス様の語られる言葉を聞き、奇跡を見て、これはどこから得たのだろう、と言いました。どこからなのか、探し、求めていくならば、彼らはイエス様が誰であるか、そのことを知ることができたと思います。イエス様はこのようなことを言われています。「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる」(マタイ7章7、8節)。

(むすび)
今、日本各地では緊急事態ということで、なかなか外出もできない状態です。一方では家族が一緒に過ごす機会が多くなっていると聞きます。家族が一緒に過ごすことができるというのはよいことのように思いますが、仕事や学校に行くことができないなどでいろいろな問題が起きているということも聞きます。実はこういうときこそが、家族と真摯に向き合うとき、いえ向き合わされるときなのかもしれません。先ほどもお話ししましたが、信仰の視点から言うならば、私たちはお互いが自分の所有物ではありません。お互いが神様のものなのです。神様に造られ、愛されているお互いを一人の人として尊重し合うこと、愛し合うことこそは神様が私たちに求めておられることなのです。
イエス様を故郷の人たちは自分たちの知っている身近な存在に過ぎないと考えました。しかし、この方は神様が私たちに与えてくださった救い主なのです。イエス様は故郷の人たちについて、「人々の不信仰に驚かれた」(6節)とあります。その不信仰とは、イエス様が語られた言葉を聞いても、神様のことを求めない心です。そのことを主は驚かれたのです。私たちはイエス様の言葉、聖書の言葉を聞いて、神様を求めていく者でありたいと思います。

祈り
恵み深い私たちの主イエス・キリストの父なる神様
今朝も私たちはそれぞれの置かれたところで神様を礼拝しています。
教会に一緒に集まって、礼拝を行ないたいという気持ちはありますが、今は我慢しなければなりません。忍耐を求められます。「苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生む」(ローマ5章3、4節)という聖書の言葉を思い起こします。
今は直接お会いすることのできない教会の兄弟姉妹のことを祈りにおぼえ、また祈られていることをおぼえ、祈りを通して、主にあって一つにされていることの恵みを感謝する者でありますように。
新型肺炎感染が収まらず、世界中の人たちが不安の中にあります。どうか、私たちに主の希望、平安を与えてください。
私たちの救い主イエス・キリストのみ名によってお祈りします。 アーメン

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