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【礼拝説教】2022年7月3日「主イエスに従う」

2022年7月 3日(日) (朝・夕) 赤塚教会礼拝説教「主イエスに従う」マタイによる福音書4章18~25節

聖書―マタイによる福音書4章18~25節
(はじめに)
 イエスさまはガリラヤで福音宣教、神さまの福音を宣べ伝える働きを始められました。当時、ガリラヤというところは、「異邦人のガリラヤ」(15節)と呼ばれ、ガリラヤに住む人たちは、自分たちこそは正統な信仰を持っていると自負していたユダヤの人たちから、低く見られていました。しかし、イエスさまはそのガリラヤのカファルナウムにお住まいになり、そこから、福音宣教を始められました。このことから、神さまの視点、神さまが大切に見ておられたことは何であるのかを教えられます。

(聖書から)
 お読みしました聖書箇所は18節からです。イエスさまがガリラヤ湖のほとりを歩いておられたところから話は始まります。
4:18 イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、二人の兄弟、ペトロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレが、湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった。
 イエスさまは二人の人たちをご覧になった、ということです。その二人は兄弟でした。名前が書いてあります。「ペトロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレ」。シモンとアンデレの兄弟で漁師でした。彼らはこの時、網を打っている最中でした。つまり、漁師としての仕事に励んでいました。
その彼らにイエスさまはこのように言われます。
4:19 イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。
 イエスさまは、シモンとアンデレの兄弟に「わたしについて来なさい」と言われました。そればかりか、「人間をとる漁師にしよう」とも言われました。これを聞いたシモンとアンデレはどうしたでしょうか。20節に、このように書いてあります。
4:20 二人はすぐに網を捨てて従った。
彼らは網を捨てて、イエスさまに従いました。これがイエスさまの招き、ご自分の弟子の招きです。イエスさまは、ご自分の弟子になるような人たちですから、神さまのことに、聖書に詳しい人たちをお招きになったのでしょうか?いいえ、そうではありませんでした。漁師である二人の兄弟をお招きになりました。神さまのことに詳しい、聖書をよく学んでいる人というなら、新約聖書の中には、ファリサイ派の人たちや律法学者がいました。けれども、そういう人たちではなく、おそらく聖書のことはあまり詳しくなかったと思われる漁師を弟子としてお招きになりました。イエスさまの弟子の招き、それは特別、優秀な人であるとか、才能に恵まれている人を弟子として招いたのではなかったようです。
 イエスさまは続いて、やはり二人の兄弟、この人たちも漁師のようですが、弟子の招きをします。
4:21 そこから進んで、別の二人の兄弟、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、父親のゼベダイと一緒に、舟の中で網の手入れをしているのを御覧になると、彼らをお呼びになった。4:22 この二人もすぐに、舟と父親とを残してイエスに従った。
 ヤコブとヨハネの兄弟をイエスさまはお招きになりました。彼らは舟の中で網の手入れをしていた、ということですから、漁の仕事を終えるところだったようです。そういう彼らでしたが、イエスさまから呼びかけられますと、舟と父親を残して、イエスさまに従った、ということです。
 それにしても、この漁師たちは「すぐに」と書かれていますように、イエスさまから招かれると、すぐに従っていきました。私はこの聖書箇所から、これまでも何度か説教してきましたが、この「すぐに」というところに注目して、イエスさまから招きがあったら、私たちもすぐに従いましょう!そういう説教をしてきたと思います。それは間違いではなかったと思いますが、あらためてこの聖書箇所を読みますと、それでは弟子たちがなぜ、すぐにイエスさまに従っていったのだろうか?そこに注目してみたいと思うのです。
 彼らはすぐに従っていった。しかも、大事な仕事道具である網、舟、そして、家族を置いてイエスさまに従っているのです。これはとても大きな決断だったと思います。そんな大きな決断がすぐにできるというのはどういうことなのでしょうか?
 それは、イエスさまとの出会い、このことが彼らを主に従うという決断へと導いたのではないでしょうか?イエスさまに従うか、従わない方がいいか?どちらが自分にとって得か、損か?そういうことを吹っ飛ばしてしまうようなイエスさまとの出会いがあったのだろう、と私は考えるのです。
 18節と21節には、イエスさまがこの漁師たちをご覧になった、ということが書かれています。これはたまたまそこにいた人がイエスさまの目に入った、ということではないと思います。イエスさまが関心を持たれた、気にかけられた、ということではないかと思います。イエスさまの愛のまなざしに彼らの心が動かされて・・・。そういうことも考えることができるでしょう。
 このようにして、イエスさまの最初の弟子が立てられました。彼らがイエスさまにとって、すぐに役に立つような弟子たちであったかは分かりません。でも、主は彼らをご自分の弟子としてお立てになったのです。彼らはこの時は何も分からず、何もできない者だったかもしれません。しかし、主に出会い、主と共に歩む中で、本当の弟子とされていったのではないでしょうか。
 23節から、イエスさまのお働きの様子が書かれています。23節をお読みします。
4:23 イエスはガリラヤ中を回って、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、また、民衆のありとあらゆる病気や患いをいやされた。
 ここでイエスさまのお働きについて、三つのことが分かります。一つは「教え」です。そして、二つ目が「宣べ伝え」ということです。三つ目が「癒やし」です。ある人はこのことについて、教えというのは、キリストを信じる者への教育、宣べ伝えというのは、主を知らない人たちへの福音の伝道、そして、癒やしというのは、病や苦しみにある人たちの心身の治療であり、牧会のことであると言っています。
 この中で、「患いをいやされた」ということが書かれていましたが、このことについて考えてみたいと思います。多くの翻訳聖書では、「患い」と訳されている言葉、「弱さ」と訳すことのできる言葉であるそうです。古い翻訳聖書ですが、永井直治という人はこの「患い」という言葉を「かよわき」と訳しています。すると、この「患いをいやされた」というところが、「かよわきを癒やされた」、あるいは「弱さを癒やされた」となります。弱さを癒やすとは、どういうことでしょうか?
 私たちの弱さを癒やすイエスさま。弱さというと、体の弱さとか心の弱さとかいろいろなことを考えることができます。ヨハネによる福音書5章にベトザタの池の病の人の話があります(ヨハネ5章1~9節)。イエスさまは38年もの間、病に苦しんでいた人にこう言われました。「良くなりたいのか」(ヨハネ5章6節)。すると、その人はこう答えました。「主よ、水が動くとき、わたしを池の中に入れてくれる人がいないのです。わたしが行くうちに、ほかの人が先に降りて行くのです」(ヨハネ5章7節)。イエスさまの問いに対して、この人は、「はい、良くなりたいです!」とは答えていません。「誰も私を助けてくれなかった。どうせ、私はダメなんだ、私なんかいなくてもいいのだ・・・」。この人の心が弱り果てている様子が分かります。そういう彼に対して、主は「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい」(ヨハネ5章8節)と言われました。すると、この人は良くなった、という話です。
 自分の弱さに留まり、そこから起き上がれないでいた人。しかし、主は「誰も私を・・・」というこの人に、いいえ、私はあなたを知っている。私はあなたを気にかけている。私はあなたと共にいる。主との出会いにより、この人は自分の弱さから解放され、主を信頼し、新しく生きる者とされたのです。これが「弱さを癒やす」ということです。このようにイエスさまの福音宣教とは、人を起き上がらせるもの、新しく生きることを導くものなのです。

(むすび)
 24、25節をお読みします。
4:24 そこで、イエスの評判がシリア中に広まった。人々がイエスのところへ、いろいろな病気や苦しみに悩む者、悪霊に取りつかれた者、てんかんの者、中風の者など、あらゆる病人を連れて来たので、これらの人々をいやされた。4:25 こうして、ガリラヤ、デカポリス、エルサレム、ユダヤ、ヨルダン川の向こう側から、大勢の群衆が来てイエスに従った。
 イエスさまから招かれた弟子たちはイエスさまに従う者とされました。そればかりか、イエスさまのもとに集まって来た大勢の群衆、彼らもイエスさまに従った、とありました。弟子たちはともかく、群衆が主に従った、というのは、一時的なことだったのだろう、と思う方があるかもしれません。確かに一時的な信仰の人たちはたくさんいたと思います。けれども、この群衆の中には、名も知れない本当に地味な人たち、地道な信仰の歩みをしていった人たちもいたと思うのです。私たちは、聖書の中には、十二弟子のこと、パウロなどのことが多く書かれていますので、そういう人たちに注目しがちですが、聖書の中にも書かれていないような無名の弟子たちが数多くいたことも忘れてはなりません。しかし、その一人一人のこと、そして、私たちのことも知られていないようで、知られていることをおぼえたいと思います。誰が知っているのでしょうか。イエスさまが私たちのことを知っておられます。主がこの私のことをご覧になっている。そのことを喜んでいきたいと思います。祈りましょう。

祈り
恵み深い主なる神さま
 主は漁師たちをご自分の弟子としてお招きになりました。その人が使えるか、使えないか。そういうことではありません。主は一人一人との出会いを喜ばれ、その人をその人としてお招きになります。
 主の弟子は主の愛のまなざしを受け、主の愛の語りかけを受け、弟子として育っていきます。私たちは主の声を共に聴きながら、歩む者でありますように。
私たちの救い主イエス・キリストのみ名によってお祈りします。 アーメン

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