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2020年6月7日 主日礼拝(朝・夕拝)説教 「主の憐れみから始まること」

(はじめに)
今朝は3月22日以来、二ヶ月ぶりの会堂に一緒に集まっての礼拝を行っています。この期間、国内の多くの教会が私たちの教会と同じように、新型コロナ感染拡大の予防ということで会堂に一緒に集まっての礼拝をお休みしていました。このようなことはおそらくここにおいでになっている方々は経験のないことだと思います。この二ヶ月の間で、キリスト教会全体にとっても大きな変化があったと思います。一緒に集まることのできない状況にあって、どのようにして礼拝を行うかということでオンライン礼拝ということを行う教会が増えてきました。ある教会は動画配信で、またある教会は音声配信、これは私たちの教会と同じですが、このような新しい形の礼拝のあり方が始められています。私も、会衆がいない、そこに人がいない、けれども、インターネットを通して、場所は異なるけれど、時間は異なるけれど、み言葉に耳を傾けておられる方がいる。そう信じて、説教を録音してきました。私は毎週、その用意をしながら、復活されたイエス様がトマスに語られた言葉、「見ないのに信じる人は、幸いである」(ヨハネ20章29節)、この語りかけを思いました。見ないのに信じるということ、誰もいないところで、一人でみ言葉を語るということは空しく思えるかもしれません。けれども、インターネットで配信された音声が、郵送された説教原稿が主によって用いられる。私たちにはこの目には見えないけれども、手応えを感じることもないけれども、私たちが思ったり、感じたりすることを超えて働かれる神さまのみわざを信じる。私にとっては信仰が試された二ヶ月でした。

(聖書から)
今朝お読みしました聖書はマルコによる福音書6章30節からです。イエスさまから遣わされた者たち、ここには「使徒たち」とありますが、イエスさまのところに来て、その行ったこと、教えたことを報告したことが書かれています。「残らず報告した」(30節)とあります。皆さんもこの二ヶ月の間、お互いにお会いすることのできなかった方々とこの期間にあったことについて、報告し合っているのではないでしょうか。そのようにして、神さまの恵みを一緒に分かち合う時、それは大切な時です。恵みの分かち合いによって、私たちは互いに励まされます。イエスさまは彼らと分かち合われた後、人里離れた所へ行って休むように言われます(31節)。そこで舟に乗って、人里離れた所へと向かいました(32節)。ところが、そこに多くの人々が集まってきたということです。33節にはそこに「彼らより先に着いた」とあります。
そのような人々の様子を主はご覧になっていました。「イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ、いろいろと教え始められた」(34節)。イエスさまの目から見ると、人々は「飼い主のいない羊のような有様」だった、というのです。飼う主のいない羊、それは何でしょうか?羊は小さな、弱い存在の象徴と言われます。飼い主がいなければ、生きていくことのできないような動物です。ところがここには飼い主のいないような有様だった、ということです。
飼い主のいない、本当に信頼するものがない・・・。そういう人々の姿を見て、主は深く憐れまれた、ということです。聖書のある訳では「腸(はらわた)のちぎれる想いに駆られた」(岩波訳)と訳されています。イエスさまは彼らの弱り果てた姿を自分のことのようにして受け止められたのです。ただ、ここで注意したいことは、イエスさまの目から見て、人々は飼い主のいない羊のような有様だった、ということです。けれども彼ら自身はそのことには気づいていなかったかもしれません。
私たちは自分が今どういう状態なのか、自分のことですから自分がよく分かっていると思う、自分が一番知っていると思う、そういうふうに考えるかもしれません。しかし、私たちの本当の姿とか、状態というのは、自分自身ではなくて、自分よりもはるかに詳しく、正しく、ご存じの方がおられることを忘れてはなりません。すなわち、イエスさまから見て、この私はどうなのか、ということです。
主は人々に「いろいろと教え始められた」とあります。人々の様子を見て、深く憐れみ、そこから、教え始められた、ということです。イエスさまが人々に福音を語られた。その動機は深く憐れまれた、ということなのです。説教題を「主の憐れみから始まること」としたのもそういう理由です。イエスさまは私たちを憐れまれた。私たちが飼い主のいない羊のように苦しんでいる、悩んでいる、その様子をご覧になって、深く憐れまれ、私たちが生きるために、主は福音を語られたのです。
主はどれだけの時間を費やされて語られたのでしょうか。35節には「時もだいぶたった」とあります。そろそろ食事の時間になった。弟子たちはイエスさまにこのように提案します。人々をここで解散させましょう。彼らは自分で周りの里や村へ食べ物を買いに行くでしょうから(35、36節)。すると、イエスさまは弟子たちにこのように言われました。「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」(37節)。
弟子たちはそこに集まっている人々がどれだけいるか、想像していたようです。そこで自分たちが二百デナリオンものパンを買って来て、みんなに食べさせるのですか?と主に尋ねます。一デナリオンが当時の一日の労働賃金ですから、二百日分の労働賃金、これは相当な金額になるということ、自分たちにはそんなことはできない、と言っているようです。
さらにイエスさまは弟子たちに今、あなたがたの手元にパンは幾つあるのか、とお尋ねになりました(38節)。弟子たちは、パンは五つあります。そして、魚は二匹です、と答えています。44節にそこにいた人たちは男性だけで五千人ということですから、女性や子供を合わせると、一万人、あるいは二万人の数だったでしょうか。それに対して、自分たちが持っているのはパンが五つと魚が二匹ということです。これでいったい人々に何ができるでしょうか?と逆にイエスさまに問いたくなるような状況でした。
39節から以下にはイエスさまが人々に食べ物をお与えになるという奇跡の様子が記されています。その箇所を読んでみます。
6:39 そこで、イエスは弟子たちに、皆を組に分けて、青草の上に座らせるようにお命じになった。6:40 人々は、百人、五十人ずつまとまって腰を下ろした。6:41 イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて、弟子たちに渡しては配らせ、二匹の魚も皆に分配された。6:42 すべての人が食べて満腹した。6:43 そして、パンの屑と魚の残りを集めると、十二の籠にいっぱいになった。6:44 パンを食べた人は男が五千人であった。
イエスさまは弟子たちに人々を組に分けて座らせるように命じられました。百人ずつ、また五十人ずつ、それぞれ人々は組になって、そこに座った、ということです。イエスさまはパンと魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱えます。口語訳聖書では「五つのパンと二ひきの魚とを手に取り、天を仰いでそれを祝福し」となっていて、イエスさまがパンと魚を祝福した、というように思えますが、新共同訳聖書のように、賛美の祈りを唱えた、ということからは、イエスさまが神さまからパンと魚を与えられていることを賛美した、感謝した、という理解になると思います。
主がパンを裂き、弟子たちに渡して配らせ、また主が魚を弟子たちに渡して配らせると、すべての人が食べて満腹した、ということです。しかもパンの屑と魚の残りを集めると、十二の籠にいっぱいになった、ということです。このようにして、イエスさまはすべての人が満たされるという奇跡を行われました。男性だけで五千人、女性と子供を合わせて、どれだけの人数だったでしょうか。その人たちを五つのパンと二匹の魚で満たしたのです。
今日の聖書の箇所を振り返って見ましょう。イエスさまは大勢の人々に対して、「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」と言われました。弟子たちにとって、これはどう考えても無理なことでした。五つのパンと二匹の魚で人々の食事を用意することは不可能なことでした。しかし、これは主が弟子たちに無理難題を言われた、ということではありません。ここで大事なことはイエスさまが弟子たちに「あなたがたが」と言われたことです。「あなたがたが」、信仰というのは、他人事ではないということです。ただ傍観者として見ているだけではなく、あなたがたが神さまのみわざに関わりなさい、ということです。私たちは、時々、このように祈るのではないでしょうか。イエスさま、あれをしてください、これをしてください。自分は何も動かないで、関わらないで、主を自分の使いのようにして、あるいは自分ではない誰かが変わればよい、そんなことさえ願って、あれをして、これをして、と祈っていることはないでしょうか。もちろん、主は私たちの願いに耳を傾けてくださる方です。そして、祈りに応えてくださいます。それは私たちの願ったとおりというよりも、願った以上のことをなさいます。主のみ心によって応えてくださいます。しかし、ここでイエスさまは「あなたがたが」と言われるのです。あなたも私と共に神さまの働きに参加しなさい、と言われるのです。
イエスさまはパンと魚を弟子たちに渡して配らせました。この奇跡に弟子たち自身も参加したのです。イエスさまはパンと魚を手に取り、天を仰いで、賛美の祈りを唱えられました。人間の目から見ると、ほんのわずかとしか思えないパンと魚でした。しかし、主は、これは神さまが与えてくださったもの、神さまに感謝をささげられたのです。それと同じように、そこにいる弟子たち、人間の目から見ると、二百デナリオンもありません、何も持っていません、何もできません・・・。そう言ってしまうような弟子たちでしたが、イエスさまは、彼らも神さまがお立てになった一人一人、そのように言われ、神さまに感謝をささげられたのではないでしょうか。そして、主は弟子たちを用いて、この奇跡を行われたのです。

(むすび)
主の弟子たちはこの出来事を通して、主の恵みを分かち合う喜びを体験しました。自分たちには無理だ。人間的に考えるとどうしようもない。しかし、神さまが願っておられることなら、神さまがお命じになったことなら、それは実現するのです。弟子たちはこの奇跡の出来事を通して、自分たちの無力さと、それを超えて生きて働かれる神さまのみわざを体験したのです。神さまのみわざに参加する喜び、神さまの与えられる恵みを分かち合う喜び、このようにして、主の弟子たちは身をもって主を信じるとはどういうことなのかを教えられていったのです。私たちも今、主の弟子として主を信じることを教えられている途上にあります。「あなたがたが」と語られる主の言葉に従って歩んでまいりましょう。

祈り
イエス・キリストの父なる神さま
今朝、私たちは二ヶ月ぶりに教会の会堂に集って礼拝をすることができまして感謝します。
この先どうなるのだろうか、と不安の中、愛する兄弟姉妹とも顔を合わせることができないまま、主の言葉に信頼し、歩むことを教えられてきました。見ないで信じることは幸い、と主は語られました。見えるものによって一喜一憂し、すぐに振り回される私たちですが、見えないあなたを、あなたの言葉を信頼して歩ませてください。
礼拝は再開されましたが、体調が優れず、教会に来ることができない方々、信仰の試練に遭い、教会から離れてしまっている方々がおられることを思います。今日の聖書箇所に、すべての人が食べて満たされた、とありました。すべての人を満たす主の言葉によって、お一人お一人の心を満たしてください、癒やしてください。
今日から始まります新しい週の歩み、パンと魚、すなわち、主の恵みを分かち合った弟子たちと同じように私たちにも主の恵みを人々と分かち合うことを導いてください。
私たちの救い主イエス・キリストのみ名によってお祈りします。 アーメン

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