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2020年6月28日 主日礼拝(朝・夕拝)説教 「光の子として歩もう」


聖書―エフェソの信徒への手5章6~20節
(はじめに)
 「あなたがたは神に愛されている子供」(1節)。このような言葉から、お読みしましたエフェソの信徒への手紙5章は始まります。私たちは神さまに愛されている子供。聖書は神さまと私たちの関係をこのように示しています。
 私たちは今日、教会に集い、礼拝を行っています。ある人は「毎週、毎週、なぜ、あなたは教会に行くのですか?」と問われ、「私は神さまに会いに行くのです」と答えました。教会に行かないと神さまに会えないのでしょうか?いいえ、そんなことはありません。けれども、教会に集い、神さまを信じている人たちと一緒に神さまを礼拝するのです。あなたこそ、私たちの神さまです、私たちを造られ、愛してくださっている神さまです、と心を合わせて賛美し、礼拝するために教会に集うのです。
 
(聖書から)
 さて、今日はエフェソの信徒への手紙5章6節からお読みしました。「むなしい言葉に惑わされてはなりません」(6節)とありました。「むなしい言葉」、どんな言葉でしょうか?いろいろな言葉があります。人を生かす言葉があります。その反対の言葉もあります。私たちが聞きたい言葉、語りたい言葉はどのような言葉でしょうか?
 言葉については、今日お読みしました聖書の箇所の少し前のところ、4章29節に「悪い言葉を一切口にしてはなりません。ただ、聞く人に恵みが与えられるように、その人を造り上げるのに役立つ言葉を、必要に応じて語りなさい」とありました。「聞く人に恵みが与えられるように、その人を造り上げるのに役立つ言葉」。その人を造り上げる。どのような言葉を語ったら、人は造り上げられるだろうか?いろいろと考えてみるのもいいでしょうが、聖書の言葉は、人を造り上げる言葉です。
 今は新型コロナウイルスの感染拡大の予防ということで、いつもなら、毎週午前10時から行っていました教会学校をお休みしています。この礼拝の中で聖書の言葉を語らせていただいていますが、私たちは教会学校の中でも、聖書を一緒に読んで、そこから受けた恵みを分かち合っています。そのようにして、私たちは聖書の言葉によって造り上げられていくのです。教会で一緒に聖書の言葉によって、また日々の生活の中で聖書の言葉によって、私たちは造り上げられていくのです。
 8節にはこのような聖書の言葉があります。「あなたがたは、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています。光の子として歩みなさい」。あなたがたは暗闇でしたが、光となりました、とあります。これはパウロがこの手紙を書き送ったエフェソの教会の人たちのことであり、今、これを聴く私たちのことです。暗闇、それは希望のない状態でしょうか、罪の中にある状態でしょうか。そういう私たちが主に結ばれることによって、救い主イエス・キリストに結ばれることによって光となった、というのです。
 光というと、聖書の中でよく知られているのは「世の光」という言葉です。「あなたがたは世の光である」(マタイ5章14節)とイエスさまは人々に語られました。世の光となりなさい、とは言われていません。あなたがたはすでに世の光、世の中を照らす光なのです、と言われています。なぜ、そう言えるのでしょうか。今日の聖書の言葉と合わせて読むと分かります。イエスさまと結ばれて、世の光、光となったというのです。「光の子として歩みなさい」。これも光の子となりなさい、ではなく、光の子とされたあなたがたは光の子として歩みなさい、と語られているのです。
 「――光から、あらゆる善意と正義と真実とが生じるのです。――」(9節)という言葉が続いています。あらゆる善意、正義、真実とが生じる。光の子というのは、神さまの子供ということでしょうか。それならば、光から、というのは神さまから、ということでしょう。聖書協会共同訳では9節を「光の結ぶ実は、あらゆる善と義と真理との内にあるからです」と訳しています。光である神さまは善と義と真理の基であって、この方と共に歩むならば、善と義と真理の実が結ばれます、と言ったらよいでしょうか。
 だから、私たちは「何が主に喜ばれるかを吟味しなさい」(10節)とありますように、何が光である神さまに喜ばれることなのかを確かめながら、尋ねながら歩むように、というのです。私たちの人生は選択すること、選び取ることの毎日です。その時、その時、何が神さまに喜ばれることなのか、祈りつつ、神さまに尋ねていくのです。私たちは選び取るというと、自分にとって得な方はどちらか、ということで考えるのではないでしょうか。しかし、そこから一歩進んで、自分にとって損か得か、を超えて、神さまの喜ばれることは何かを求めていくとき、私たちの人生は変わっていくのです。
 光に対して、「暗闇の業」(11節)、「ひそかに行っている」(12節)ことについて言われています。このような言葉を読みますと、私たちの心の中が探られているような思いがしますが、私たちは自分自身を吟味する必要があるのです。自分のあり方、生き方について考えてみるのです。今回の新型コロナのことで、出かけることができず、活動することができず、家にいて家族と向き合う、また自分に向き合うという機会が与えられたという方はおられるのではないでしょうか。けれども、これは何も非常時というだけでなく、いつでもそういう時間を持ってみるのは大事なことです。
 14節には「明らかにされるものはみな、光となるのです。それで、こう言われています。「眠りについている者、起きよ。死者の中から立ち上がれ。そうすれば、キリストはあなたを照らされる。」」とあります。明らかにされる。それは神さまの光が照らされるということです。真っ暗な部屋には何があるか分かりません。でも、光を照らすと、部屋の中に何があるのか分かります。神さまという方は私たちの心の部屋を照らしてくださる方です。そのことによって、私たちは自分の中にある闇の部分が見えてくる、自分の本当の姿が見えてくるのです。
 「眠りについている者、起きよ。死者の中から立ち上がれ。そうすれば、キリストはあなたを照らされる」とありました。私たちは、神さまの光に照らされる前は眠っているような状態、死んだような状態だった、というのです。しかし、そこから神さまが起こしてくださる、立ち上がらせてくださる、というのです。
 そして、「賢い者として、細かく気を配って歩みなさい」(15節)、「時をよく用いなさい」(16節)、「主の御心が何であるかを悟りなさい」(17節)。このような勧めが続いて語られています。神さまの光に照らされ、私たちは神さまと共にある新しい人生を生きる者とされた。だから、どのように歩むか、与えられた時をどのように生きるか、神さまのみ心は何であるかを悟りなさい、というのです。
 18節以下には、具体的なことが言われています。「酒に酔いしれてはなりません。それは身を持ち崩すもとです。むしろ、霊に満たされ、詩編と賛歌と霊的な歌によって語り合い、主に向かって心からほめ歌いなさい。そして、いつも、あらゆることについて、わたしたちの主イエス・キリストの名により、父である神に感謝しなさい」(18~20節)。
 酒に酔うのではなく、霊に満たされるように、ということが言われています。この「酒に酔う」というのは世の中の楽しみを象徴して言っているのかもしれません。それに対して、それ以上の楽しみ、喜びがあることがここに示されています。霊に満たされるということ、それは私たちに本当の喜び、生きる喜びを与えてくださるのは神さまであるということ、その神さまの愛に満たされなさい、ということです。
 私たちは誰もが人から認められたい、価値ある者と認められたいという欲求があります。家族の間でも、職場でも、学校でも、自分が認められるということで、自分という存在を確かめることができます。自分は価値ある者なのだ、自分はここにいていいのだ、と自分の生きる場所、居場所が確認できて安心します。けれども、その反対の場合はどうでしょうか。いつもそういう心配、不安を抱えているのが私たちの現実ではないでしょうか。
聖書はこのことについてどのように語っているでしょうか。聖書の最初の箇所、創世記には「神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった」(創世記1章31節)とあります。神さまはご自分の造られたものを良しとしてくださっている。神さまは私たち一人一人、その存在を認めてくださり、喜んでおられることを示しています。しかし、それにもかかわらず、私たち人間は神さまから離れてしまい、自分を神のようにして、自分自身がすべての判断基準のようになってしまいました。私たちがお互いを裁き合ったり、上か下かと比べたりしている状態、それが私たちの罪の姿です。それに対して、罪から離れ、神さまの方へ立ち帰り、あなたこそ神さまです、すべてのことをお決めになるのはあなたです、あなたに自分の人生をお委ねしていきます、という生き方、それが神さまを信じるということです。
 もう一度、今日の聖書の言葉の最後のところを読みますと、「霊に満たされ、詩編と賛歌と霊的な歌によって語り合い、主に向かって心からほめ歌いなさい。そして、いつも、あらゆることについて、わたしたちの主イエス・キリストの名により、父である神に感謝しなさい」とありました。ここに書かれていることは、ひと言で言いますと、礼拝のことです。礼拝とは、私たちが神様に造られ、愛され、神さまから極めて良いものとされた。その神さまの私たちに対する愛を受け止め、喜び、神さまに感謝することです。

(むすび)
 霊に満たされなさい。それは神さまの心、神さまの愛に満たされて生きるように、ということです。そのことが分かち合われ、互いに喜び合い、感謝する。それが礼拝です。今日も私たちは互いが神さまの子供、光とされていることを共に分かち合いました。今日から始まります新しい日々、この喜びをこれから出会う人たちと分かち合えたら幸いです。

祈り
イエス・キリストの父なる神さま
今日も私たちは神さまを礼拝するために教会に集っています。「霊に満たされ、詩編と賛歌と霊的な歌によって語り合い、主に向かって心からほめ歌いなさい。そして、いつも、あらゆることについて、わたしたちの主イエス・キリストの名により、父である神に感謝しなさい」。今日の聖書の言葉は礼拝のことが語られていました。なぜ、私たちは神様を賛美するのでしょう、感謝するのでしょう、礼拝するのでしょう。それは神さまが私たちを造られ、愛され、良しとされたからです。神さまは私たちの存在を喜び、いつも一緒に歩んでくださっています。私たちもこの神さまの愛を喜びます。この喜びをこの新しい週、新しい日々も人々と分かち合うことができますように導いてください。
私たちの救い主イエス・キリストのみ名によってお祈りします。 アーメン

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