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2020年7月5日 主日礼拝(朝・夕拝)説教 「神の言葉を無にしない」


聖書―マルコによる福音書7章1~13節
(はじめに)
 先週の水曜日は久しぶりの祈祷会を行うことができました。三月からお休みしていましたから、四ヶ月ぶりの再開となりました。教会には五人が出席し、オンライン、インターネットを通して十人、合わせて十五人の出席となりました。未だに新型コロナウイルスの感染の拡大は収まっていませんが、そのような状況の中で感染の拡大を予防しながら、注意しながら、教会は少しずつ活動を再開しています。私たちに命を与え、愛し、導いておられる神さまを今日も礼拝していきましょう。
 
(聖書から)
 お読みしました聖書の箇所はマルコによる福音書7章1節からです。この箇所について、新共同訳聖書の小見出しは「昔の人の言い伝え」となっています。お読みした箇所には、手を洗う、洗わない、ということが書かれていました。今、私たちは感染拡大を予防するということで手を洗うことが励行され、一日のうち、何度も手を洗うように心がけています。それも石けんで洗ったり、アルコール消毒剤で消毒したりしています。今日の聖書の箇所で言われているのはそういう衛生上の問題として手を洗うという話ではありません。3節から読んでみますと、「ファリサイ派の人々をはじめユダヤ人は皆、昔の人の言い伝えを固く守って、念入りに手を洗ってからでないと食事をせず、また、市場から帰ったときには、身を清めてからでないと食事をしない。そのほか、杯、鉢、銅の器や寝台を洗うことなど、昔から受け継いで固く守っていることがたくさんある」(3、4節)とあります。
 念入りに手を洗う、身を清める、とありますが、これは病気に感染しないためということで言われているわけではありません。汚れから身を清めるために行ったことでした。何の汚れでしょうか?それは汚れた人たちから自分たちの身を清めるため、清さを保つためという意味がありました。汚れた人たち、それは当時のユダヤの宗教指導者たちにとっては、外国の人たち(異邦人)、自分たちの信じている神を信じない人たちを罪人、汚れた人としていました。それなのに、あのイエスという男は、イエスの弟子たちはそういう人たちと一緒に食事をしたりしている。そういう批判がありました。例えばこういう箇所があります。「ファリサイ派の律法学者は、イエスが罪人や徴税人と一緒に食事をされるのを見て、弟子たちに、「どうして彼は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と言った」(2章16節)。
 汚れた手で食事をする。汚れた人たちとお付き合いをする。それは間違いだ、罪だ、とファリサイ派の人々と律法学者たちが言いました。すると、イエス様はそれに対してお答えになりました。「イザヤは、あなたたちのような偽善者のことを見事に預言したものだ。彼はこう書いている。『この民は口先ではわたしを敬うが、/その心はわたしから遠く離れている。人間の戒めを教えとしておしえ、/むなしくわたしをあがめている。』あなたたちは神の掟を捨てて、人間の言い伝えを固く守っている」(6~8節)。
 旧約聖書・イザヤ書の言葉を引用してお答えになっています。あなたがたは人間の言い伝え、戒めを教えとして守っているが、神さまの言葉、掟から離れてしまっている。そのように主は言われるのです。当時、ユダヤの宗教指導者たちは聖書の言葉を自分たちでそれを理解しやすいように、従いやすいように解釈して教えていました。理解しやすいように、分かりやすいように、ということは決して間違ったことではありません。私も聖書の言葉をこの礼拝の中でできるだけ分かりやすいように、と努めてきたつもりですが、時々、気をつけなければ、落とし穴があるのです。それは神さまが本当におっしゃっていることから外れて、自分の都合のよいように解釈してしまう。また、聖書の言葉を取捨選択して、自分の納得できる、自分の好むある一部だけしか聞かない。そうするうちに神さまの言葉に対する聞き方がおかしくなっていくのです。
 当時の宗教指導者たちは、自分たちでは神さまの言葉を正しく聞き、伝えていると思っていたかもしれません。しかし、イエスさまから見ると、そうではなかったのです。彼らは自分たちが神さまの言葉から離れ、人間の言い伝えに生きていることに気づいていなかったのではないでしょうか。私たちも気をつけなければなりません。聖書を読む時、聞く時、神さまが私に何を語っておられるのか。神さまから聞く、という姿勢で読んでいく、聞いていくのです。そうでなければ、この宗教指導者たちと同じようなことになってしまいます。
 イエスさまはさらに具体的にお話しをされます。9節からは一つの例を挙げておられます。「あなたたちは自分の言い伝えを大事にして、よくも神の掟をないがしろにしたものである。モーセは、『父と母を敬え』と言い、『父または母をののしる者は死刑に処せられるべきである』とも言っている。それなのに、あなたたちは言っている。『もし、だれかが父または母に対して、「あなたに差し上げるべきものは、何でもコルバン、つまり神への供え物です」と言えば、その人はもはや父または母に対して何もしないで済むのだ』と。こうして、あなたたちは、受け継いだ言い伝えで神の言葉を無にしている。また、これと同じようなことをたくさん行っている」(9~13節)。
 聖書の中の教えに「十戒」というものがあります。これは神さまがモーセをイスラエルの指導者として立てて、エジプトを脱出させようとされた時、イスラエルの人々、神さまの民に与えた掟です。その十戒の中の一つの教えが父と母を敬え、ということです。神さまが父と母を敬え、と言われていますから、私たちは敬うように努めなければなりません。あなたの親を愛しなさい、大切にしなさい、ということです。ところが、あなたがたはそうしなくてもよい、と教えているというのです。私はコルバン、これは神さまへの供え物という意味だそうですが、供え物をささげていれば、父や母に対しては何もしなくてもよい、というのです。このように、聖書の言葉を、神さまの戒めをそのまま受け取ることをしないで、自分たちの都合のよいように解釈し、神さまに従うことをしなかったのです。
 このイエスさまとファリサイ派の人々、律法学者たちのやり取りですが、イエスさまはイザヤ書の言葉を引用されました。その言葉をもう一度、読んでみます。「この民は口先ではわたしを敬うが、/その心はわたしから遠く離れている。人間の戒めを教えとしておしえ、/むなしくわたしをあがめている」(6、7節)。「その心はわたしから遠く離れている」とあります。イエスさまがファリサイ派の人々、律法学者たちの根本的な問題として示されたのはこのことです。あなたがたの心が神さまから遠く離れてしまっている。そこから自分たちに都合のよい従い方や形だけの信仰に陥ってしまうのです。私たちは自分がイエスさまを信じて、それなりの信仰生活を送っている。こういうささげものをしているし、こういう奉仕をしているし・・・。しかし、私たちの心は神さまの方を向いているでしょうか。神さまから離れていないでしょうか?そのことはいつも点検する必要があると思います。
 一方で今日の箇所で言われていた「清める」ということ、このことは大事なことです。自分の身を清める、清く保つ。しかし、それは手を洗うとか、体を洗うということで清められるものではありません。二つの聖書の言葉を読んでみましょう。一つは詩編119編9節です。そして、もう一つはヤコブの手紙1章27節です。詩編119編9節には「どのようにして、若者は/歩む道を清めるべきでしょうか。あなたの御言葉どおりに道を保つことです」とあります。歩む道を清めるにはどうしたらよいか。それは神さまの言葉どおりに道を保つこと。神さまの言葉に従うことです。ヤコブの手紙1章27節には「みなしごや、やもめが困っているときに世話をし、世の汚れに染まらないように自分を守ること、これこそ父である神の御前に清く汚れのない信心です」とあります。弱さを覚えている人たちを助けること、支えること、罪から自分を守ることが清く汚れのない信心とあります。神さまの言葉、心、愛に生きる、従う、それが自分を清める生き方です。

(むすび)
この何ヶ月か、報じられることはコロナ関連の話題でしたが、黒人男性が白人の警察官に首を圧迫されて死亡した事件がきっかけとなってアメリカでは黒人差別の問題が盛んに報じられるようになりました。私はなぜ、肌の色によって差別があるのだろうか?他にも差別の要因はあるのでしょうが、考えさせられました。そして、肌の色ということで、身近なところですが、クレヨンとか色鉛筆に肌色というのがあったことを思い出しました。肌色というのはどんな色のことかというと、日本人は黄色人種ということで黄色っぽい色でしょうか。けれども、今はクレヨンや色鉛筆に肌色というのは無いのです。肌色と言われていた色が「うすだいだい」に変わったそうです。肌色というと、自分の肌の色のことを考えますが、肌の色というのは世界中、いろいろあるのです。このように私たちは自分を中心に、自分を基準に考えてしまうようなことがあるのではないでしょうか。そして、自分と違うこと、違う人を排除したり、差別したりしてしまうのではないでしょうか。
今日の箇所に出ていた「人間の言い伝え」というのも同じです。私たちは神さまの言葉に生きるように、つまり、神さまを基準として生きるように導かれています。それなのに、そのことから離れて、自分を基準にしてしまう。神さまの言葉を自分の都合に合わせて、まるで神さまが言われたかのようにするところに罪があり、偽善(6節)があることが示されていました。
今日の説教題は「神の言葉を無にしない」としました。神さまの言葉を無にしてはならない。その内実は神さまの心を無にしない、神さまの愛を無にしない、ということです。神さまの言葉には神さまのみ心が示されています。私たちに対する愛が示されています。み言葉を軽んじることがないように、神さまの愛を軽んじることがないように。それが私たちに語られた戒めです。

祈り
イエス・キリストの父なる神さま
 ファリサイ派の人々、律法学者たちの罪、それは神さまの言葉を自分たちの言い伝えによって無にしてしまったところにありました。これは私たちも常に陥りやすいことです。
神さまの言葉を、自分たちの都合のよいように理解したり、自分たちの心地よいところだけ聞いたりしないで、神さまから語られる愛の言葉、真実の言葉を素直に受けることができますように。
 自分を清く保つとは、清く生きるとは、人を汚れた者として、差別したり、軽んじたりするのではなく、神さまの愛と義に生きることです。
 どうか新しい週の歩みも私たちを罪から守り、神さまのお示しになる道を歩ませてください。
私たちの救い主イエス・キリストのみ名によってお祈りします。 アーメン

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