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2020年7月26日 主日礼拝(朝・夕拝)説教 「出発点はキリストから」


聖書―エフェソの信徒への手紙6章1~9節
(はじめに)
先週の午後、オンラインでの祈祷会参加のための講習会を行いました。講習を受けられた方の中でさっそく水曜日の祈祷会にオンラインで参加された方があり、大変嬉しく思いました。神さまの言葉を一緒に聴き、それを受けて、一緒に祈る。そういう祈りの輪が拡がっていくことは本当に素晴らしいことです。さらにこの祈りの輪が拡がっていくことを心から願っています。

(聖書から)
さて、お読みしました聖書はエフェソの信徒への手紙6章1~9節でした。先週はその前のエフェソの信徒への手紙5章21~33節からお話ししました。先週の聖書箇所は「妻と夫」という小見出しが付いていましたが、今日の箇所では1~4節が「子と親」、5~9節が「奴隷と主人」という小見出しが付いています。妻と夫、子と親、奴隷と主人、それぞれの人間関係についての勧めが書かれています。
これらの勧めの鍵となる言葉はこれも先週お話ししましたように、5章21節にありました「キリストに対する畏れをもって、互いに仕え合いなさい」ということです。イエス・キリストはご自分の弟子たちに互いに仕え合いなさい、と教えられました。新約聖書・ヨハネによる福音書13章というところに「弟子の足を洗う」という小見出しが付いている箇所があります。イエスさまが間もなく捕らえられ、十字架におかかりになる直前の話です。イエスさまはご自分の弟子たちと一緒に夕食を食べておられた時のことです。イエスさまは弟子の一人ペトロの足を洗い、さらに他の弟子たちの足も洗いました。当時の靴は今でいうサンダルです。外を歩くと、土埃で汚れますから、家に入ると、その家の奴隷が足を洗うという仕事をしました。ところが、この場面ではイエスさまはその奴隷の仕事をなさったのです。イエスさまは弟子たちにとって師匠ですから、師匠のイエスさまが弟子の足を洗うというのはおかしなことです。けれども、イエスさまは弟子たちの足を黙々と洗われたのです。足を洗われた後、イエスさまは弟子たちにこのようなことを言われました。「ところで、主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである」(ヨハネ13章14、15節)。
イエスさまはご自分が弟子たちの足を洗われたことで模範を示されました。私があなたがたにしたように、あなたがたも互いに足を洗い合いなさい。足を洗うというのは奴隷の仕事でした。それはつまり、互いに仕え合いなさい、仕える者として歩みなさい、ということを、身を持って教えられたのです。このイエスさまの教え、それが今日の聖書の言葉の土台にあるのです。
先週の「妻と夫」、夫婦に対する勧めに続きまして、今日の箇所ではまず、「子と親」に対する勧めが語られています。子供たちに対して、このような勧めが語られていました。
6:1 子供たち、主に結ばれている者として両親に従いなさい。それは正しいことです。6:2 「父と母を敬いなさい。」これは約束を伴う最初の掟です。6:3 「そうすれば、あなたは幸福になり、地上で長く生きることができる」という約束です。
「子供たち」という呼びかけに続いて、「主に結ばれている者として両親に従いなさい」と言われています。主に結ばれている者。私たちの救い主イエス・キリストに結ばれている者ということです。別の訳では「主にあって」(聖書協会共同訳、新改訳2017)となっています。主に結ばれている私、主にある私。聖書はそのように子供たちに向かって、そして、私たちに向かって言っているのです。イエスさまを主と信じている人にとっては、ああ確かにそうだ。アーメン、と言われるでしょう。イエスさまを私は信じていなけれど、知らなかったけれど、という人に対しては、イエスさまはあなたと一緒にいます。だから、イエスさまを信じて、信頼して歩んでいきましょう、という呼びかけと聞いてくださるといいでしょう。
そして、両親に従いなさい、と続きます。両親に従うことが正しいこととありますが、どうして正しいのかというと、2節に「父と母を敬いなさい」とありました。これは神さまが神さまの民であるイスラエルの民に与えた掟、十戒の中にある掟です。自分の親を敬う、大切にする。すると、「そうすれば、あなたは幸福になり、地上で長く生きることができる」とあります。地上における人生の長さというのは人それぞれです。長い人生が良くて、短い人生はダメということではありません。命は神さまが与えてくださるものですから、長く生きていることは神さまからの祝福、恵みだと理解したのです。そして、ここで言われていることは親を敬う、親を大事にする人生、それが幸福な人生なのだということです。幸福とか、幸せというのは何か自分にとって良いことがあったから幸福、幸せということではないのです。自分がどのように生きるのか、その生き方によって幸福かそうでないかが決まるのです。聖書は幸福な生き方をしましょう、と教えます。それは言葉を変えれば、互いに仕え合う生き方、互いに愛し合う生き方、それこそは幸福な生き方なのです。
次に親に対する勧めが語られています。これは子供に対する勧めに比べると短いですがこのように言われています。
6:4 父親たち、子供を怒らせてはなりません。主がしつけ諭されるように、育てなさい。
これと似た言葉がコロサイの信徒への手紙3章21節にあります。ここでは「父親たち、子供をいらだたせてはならない。いじけるといけないからです」となっています。怒らせてはなりません、というところが、いらだたせてはならない、とあり、いじけるといけないから、とも書かれています。いじけさせない。どうしたらよいでしょうか?それは親自身が神さまに愛され、神さまに受け入れられている喜びから子供に接していくことです。旧約聖書のイザヤ書には神さまがイザヤに語られたこのような言葉があります。「わたしの目にあなたは価高く、貴く わたしはあなたを愛し」(イザヤ43章4節)。神さまからこのようなことを言われている私。その私は自分の子供にもこのことを伝えるのです。私たちは神さまに愛されている。高価で貴い、価値のある存在とされている。このことを親子の間で分かち合っていくのです。そればかりか、夫婦の間でも、友人の間でも分かち合っていくのです。
この勧めに続いて、「奴隷と主人」についての勧めがあります。
6:5 奴隷たち、キリストに従うように、恐れおののき、真心を込めて、肉による主人に従いなさい。6:6 人にへつらおうとして、うわべだけで仕えるのではなく、キリストの奴隷として、心から神の御心を行い、6:7 人にではなく主に仕えるように、喜んで仕えなさい。6:8 あなたがたも知っているとおり、奴隷であっても自由な身分の者であっても、善いことを行えば、だれでも主から報いを受けるのです。
ここには奴隷のことが書いてあります。すると、聖書は奴隷制度を認めているのか?この手紙を書いたパウロは奴隷制度に賛成していたのか?そういう疑問を持たれる方があるかもしれません。これは先週もお話ししたと思いますが、聖書も時代の中で書かれたものです。当時の価値観、社会制度の中で書かれたものです。これはあくまでも想像ですが、私は、イエスさまが、あるいはパウロが今の時代にここにおられ、語られたなら、どんなことを語られただろうか?と考えます。当時は問題なかったとしても、今なら差別的な価値観、言葉になるものなら、それを反対されたり、異を唱えたりされたのではないかと思います。それは9節の言葉から考えられます。
6:9 主人たち、同じように奴隷を扱いなさい。彼らを脅すのはやめなさい。あなたがたも知っているとおり、彼らにもあなたがたにも同じ主人が天におられ、人を分け隔てなさらないのです。
ここには主人に対する勧めが書かれていますが、最後のところには「あなたがたも知っているとおり、彼らにもあなたがたにも同じ主人が天におられ、人を分け隔てなさらないのです」とあります。同じ主人が天におられる、主人と奴隷には同じ主人、本当の主人がおられる。それは神さまです。神さまは人を分け隔てなさらない。別の訳では「人を差別なさらない」(新改訳2017)とあります。神さまは人を分け隔てなさらない方、差別されない方であるとパウロはここではっきりと語っています。
奴隷に対しての勧めの中には「キリストに従うように」、「キリストの奴隷として、心から神の御心を行い」、「人にではなく主に仕えるように」とあります。主人に対しての勧めの中には「主人たち、同じように奴隷を扱いなさい」とあります。どちらもキリストに従うように、仕えるように、主人に仕えよ、奴隷を扱いなさい、と言われています。

(むすび)
今日の説教題は「出発点はキリストから」としました。私たちは何をするにもまず、イエス・キリストがこの私にしてくださった十字架の愛と赦しを覚えて、そこから始めていきましょう。今日の聖書の箇所では、子と親に対する勧め、奴隷と主人に対する勧めが書かれていましたが、これもやはり主の愛と赦しを覚えて、そこから始まる関係であると言われていました。ここにおいでになっている皆さんも同じです。私たちの人間関係、そこには、お互いの間にはイエスさまがおられることを忘れてはならないのです。イエス・キリストが私たちの間を取り持っておられる、執り成してくださる。そのことを覚えて歩んでまいりましょう。

祈り
恵み深い天の父なる神さま
この日曜日に私たちは神さまを礼拝するために教会に集ってまいりました。オンラインでの礼拝、祈祷会ができるようにIT関係に詳しい教会の兄弟姉妹が関わってくださり、教会に集っておられる方々、インターネットでつながっている方々と一緒に神さまを礼拝しています。神さまがその時代、その時代に関わってくださり、語りかけ、一緒に歩んでくださいましたように、私たちの生きるこの時代にも、新しいことをさせ、導いてくださっていることを感謝します。
一方でどんなに文化、文明が進歩しても、人間の罪深さ、肉の弱さは変わりません。何を持ってしてもそれを克服することはできません。神さまの古くて、新しい言葉だけが私たちを罪と死の滅びから救い、愛と赦しに生きることを導きます。新しい週の歩みも救い主であるあなたが一緒に歩んでくださり、あなたのお示しになった愛と赦しをそれぞれの置かれたところで現してくださいますように。そして、どこにあっても主を崇めさせてください。
私たちの救い主イエス・キリストのみ名によってお祈りします。 アーメン

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