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2020年10月18日 主日礼拝(朝・夕拝)説教 「キリストの心を心とする」

2020年10月18日(朝・夕)礼拝説教「キリストの心を心とする」フィリピの信徒への手紙2章1~11節

聖書―フィリピの信徒への手紙2章1~11節
(はじめに)
 今日の礼拝の説教題は「キリストの心を心とする」としました。これはお読みしました聖書の5節の言葉から取りました。5節を読んでみます。
2:5 互いにこのことを心がけなさい。それはキリスト・イエスにもみられるものです。
 「このこと」とあります。それはその前の方に書かれていた言葉を受けて言われているということです。4節も読んでみましょう。
2:4 めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。
 自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払う。自分のことだけを考えるのでなく、他人のことも考える。これは聖書だけに言われていることではありません。皆さんは家庭や学校でも教えられてきたことではないでしょうか。そう考えますと、これは特別な生き方ということではありません。神さまによって造られた私たち人間に与えられた生き方です。「他人のことにも注意を払いなさい」。この注意を払うという言葉を口語訳聖書では「考えなさい」、新改訳聖書では「顧みなさい」と訳しています。このことがキリスト・イエスにもみられると言われているのです。イエスさまという方こそは、自分のことだけでなく、他人のことに注意を払う、考える、顧みる方であったというのです。そればかりか、私たちのためにご自分の命をささげられた方でありました。
 ところで、説教題は「キリストの心を心とする」としましたが、これは文語訳聖書から取りました。新共同訳聖書では「互いにこのことを心がけなさい。それはキリスト・イエスにもみられるものです」と訳されている言葉がこのように訳されています。「汝らキリスト・イエスの心を心とせよ」。キリストの心、それは自分のことだけでなく、他人のことも注意を払う、考える、顧みる、そういう心だ、というのです。イエス・キリストという方は神の子、救い主でしたが、私たちのためにこの地上においでになり、そのように生きられ、また死なれた。そして、罪と死に勝利され、復活されたということをおぼえたいと思います。そして、私たちもキリストの心に倣って生きる。キリストの心を私たちの心としていきましょう。しかし、このことは私たちがそうなりたい!と一生懸命努力してなれるものではありません。復活の主がこの私の内におられ、生きて働いておられる。この信仰をもって、日々、主を求めていくところから始まることなのです。

(聖書から)
 さて、最初に1、2節をお読みします。
2:1 そこで、あなたがたに幾らかでも、キリストによる励まし、愛の慰め、“霊”による交わり、それに慈しみや憐れみの心があるなら、2:2 同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして、わたしの喜びを満たしてください。
 キリストによる励まし、愛の慰め、“霊”による交わり、慈しみや憐れみの心、これらについて、「あなたがたに幾らかでも・・・あるなら」と書かれています。幾らかでも・・・あるなら、ということですから、この手紙の宛先であるフィリピの教会の人たちには、これらのことがまったく無いというわけではありません。幾らかでもある、少しでもある、とこの手紙を書いたパウロは言い切っているのです。
 パウロがフィリピの教会の人たちのことをよく知っていて、あの人たちには少しは人を励ましたり、慰めたり、愛する心があるだろうから、と思って書いたのでしょうか?私はパウロがフィリピの教会の人たちのこと、その性格とか、生活とか、そういうことをよく知っていたかは知りません。けれども、パウロは一つのことは知っていました。それは神さまの愛、フィリピの教会の人たちに対する神さまの愛ということです。
 神さまはフィリピの教会の人たちを愛しておられる。だから、フィリピの教会の人たちが神さまの愛を受け止めて、キリストによる励まし、愛の慰め、“霊”による交わり、慈しみや憐れみの心が彼らの中に身に付いていったはずだ。パウロは神さまの愛を信じ、神さまの愛に期待して、このように言ったのです。私はパウロがもしも私たち赤塚バプテスト教会に手紙を書いたならば、これと同じことを書いたと思います。また同じ理由で、神さまの愛を信じ、期待したと思います。
 続いて2節にはこのようなことが書かれていました。「同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして、わたしの喜びを満たしてください」。「同じ」ということ、「一つ」ということが言われていました。これはみんながみんな同じ考えということではありません。神さまは私たちを個性豊かな存在としてお造りになりました。「みんなちがってみんないい」のです。ここで言われている「同じ」ということ、それはキリストと同じ思い、キリストと同じ愛ということです。そして、それに続く「心を合わせ、思いを一つにして」というのは何かというと、このことを考えるために二つの聖書の言葉を読んでみましょう。
12:27 あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です。(一コリント12章27節)
1:23 教会はキリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場です。(エフェソ1章23節)
 ここには教会についてのみ言葉が語られています。教会というと、建物のことを考えます。もちろん、建物も大事ですが、ここには教会の本質、内実が語られているのです。それはお読みしましたように、教会というのはキリストの体であるというのです。そして、教会に呼び集められている私たち一人一人はその体の各部分です。体の各部分ですから、お互いは欠けてはならない大切な存在です。「心を合わせ、思いを一つにして」というのは、お互いが愛し合い、協力し合い、キリストの愛、キリストの思いのために励むということです。
 続く3節以下を読んでみましょう。
2:3 何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、2:4 めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。2:5 互いにこのことを心がけなさい。それはキリスト・イエスにもみられるものです。
 お互いのことを自分よりも優れた者と考えるように、とありました。私たち人間は罪深い者ですから、その反対のことを考えてしまいます。相手が自分よりも劣った者であるように、と願い、自分の方が上だ、と思いたいものです。しかし、ここには相手を自分よりも優れた者と考えなさい、と言われています。それは何か相手に対して卑屈になるとか、劣等感を持つということではありません。私もあなたも同じ、神さまに愛され、大切な存在とされている。そういうお互いであると考えなさい、ということです。先ほど、5節のことについて触れました。「キリストの心」。私たちは聖書からキリストの心を知ります。キリストがどんなに私たちを愛しておられるかを知ります。そのキリストの心、キリストの愛の心を思いながら、相手を見ていく、出会っていく、関わっていくということです。

(むすび)
 6~11節は「キリスト賛歌」と言われる内容です。この箇所が初代教会では賛美歌として歌われたと言われています。
2:6 キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、2:7 かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、2:8 へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。2:9 このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。2:10 こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、2:11 すべての舌が、「イエス・キリストは主である」と公に宣べて、父である神をたたえるのです。
この聖書の言葉にありますように、神さまがご自分のみ子であるイエスさまをこの世にお送りくださったのは何のためであったでしょうか。それは、一つは私たちを救うためでした。ここに「十字架の死」ということが書いてありますが、主は私たちを罪から救うため、十字架に掛かり、死なれたのです。そして、もう一つのこと、それはすべての人がこのイエスさまこそは私の救い主です、と告白するためでした。これは賛美であり、礼拝です。もう一度、10、11節をお読みして終わります。「こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が、「イエス・キリストは主である」と公に宣べて、父である神をたたえるのです」。
 このみ言葉を私たちの祈りとしていきましょう。すべての人がイエスのみ名にひざまずき、その口から「イエス・キリストは主である」と告白することができますように。すべての人が主を賛美し、主を礼拝する者となりますように。私たちはそのためにイエスさまの愛を、救いを宣べ伝えることにますます励んでいきましょう。

祈り
恵み深い私たちの主なる神さま
 使徒パウロはフィリピの教会の人たちに向かって語ります。「あなたがたに幾らかでも、キリストによる励まし、愛の慰め、“霊”による交わり、それに慈しみや憐れみの心があるなら・・・」と。私たち人間の内には愛はありません。心の貧しい者でありますが、主が私たちを愛してくださり、本当の愛を教えてくださいました。キリストの心、キリストの愛の心を与えてくださいました。感謝します。
 今日のみ言葉には、へりくだるように、ということも言われていました。へりくだるためには、真実に神さまの前に立たなければなりません。神さまの本当の愛、本当の義を知る時、自分の愛や正しさがどんなに小さなものであり、愛とは言えない、正しいとは言えない本当の自分の姿が見えてまいります。しかし、そういう私たちに神さまはご自分の愛と義を示され、それに生きるようにと導いておられます。その恵み、憐れみに応えていく者としてください。
 主は私たちを救いへと導いてくださいました。それは神さまのご計画、目的のためでした。すべての人が「イエス・キリストは主である」と告白するために私たちを用いておられます。小さな者ですが、どうぞ、この私をあなたのご用のために用いてください、と祈りつつ、歩ませてください。
私たちの救い主イエス・キリストのみ名によってお祈りします。 アーメン

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