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【礼拝説教】2023年4月9日「あの方はガリラヤへ行かれる」

2023年4月9日(日)(朝・夕) 赤塚教会イースター礼拝説教「あの方はガリラヤへ行かれる」マルコによる福音書15章42節~16章8節

聖書―マルコによる福音書15章42節~16章8節
(はじめに)
 イースター、おめでとうございます。先週の一週間は受難週を過ごしました。神さまのみ子であるイエス・キリストが私たちを罪から救うために十字架におかかりになった。その歩みをおぼえる時を過ごしました。そして、今日はイエスさまが復活されたことをお祝いします。イエスさまが復活されたことには、二つの意味があります。一つは、イエスさまは罪に勝利された、ということです。そして、もう一つは、イエスさまは死に勝利された、ということです。罪と死に勝利されたイエスさま、この方を信じる者は、罪から解放され、死から解放され、永遠の命を生きることができるのです。今朝は、四年ぶりに、所沢霊園でイースター墓前礼拝を行いました。霊園にある教会のお墓の墓碑には、先に天に召された方々の名前が刻まれています。天に召された方々は、お墓にはいません。けれども、墓碑にその名前が刻まれているように、神さまにその名前は、存在はおぼえられていて、永遠の命をいただいて生きているのです(黙示録21章27節)。

(聖書から)
 お読みしました聖書には、イエスさまが十字架にかかって死なれた直後のことが書かれていました。まず、マルコによる福音書15章42節以下をお読みします。
15:42 既に夕方になった。その日は準備の日、すなわち安息日の前日であったので、15:43 アリマタヤ出身で身分の高い議員ヨセフが来て、勇気を出してピラトのところへ行き、イエスの遺体を渡してくれるようにと願い出た。この人も神の国を待ち望んでいたのである。15:44 ピラトは、イエスがもう死んでしまったのかと不思議に思い、百人隊長を呼び寄せて、既に死んだかどうかを尋ねた。15:45 そして、百人隊長に確かめたうえ、遺体をヨセフに下げ渡した。15:46 ヨセフは亜麻布を買い、イエスを十字架から降ろしてその布で巻き、岩を掘って作った墓の中に納め、墓の入り口には石を転がしておいた。15:47 マグダラのマリアとヨセの母マリアとは、イエスの遺体を納めた場所を見つめていた。
ここに書かれているのは、イエスさまが死なれた当日のことです。安息日の前日にイエスさまは死なれました。安息日というのは、土曜日です。その前日、金曜日、その日をキリスト教会は受難日、受苦日、また聖金曜日とも言います。その日にあった出来事として、アリマタヤ出身の議員ヨセフという人が、イエスさまの遺体を引き取り、自分の墓に納めた、ということです。そのことについて、聖書には、「勇気を出してピラトのところへ行き、イエスの遺体を渡してくれるようにと願い出た」と書かれています。なぜ、イエスさまの遺体を引き取るために、勇気を出さなければならなかったのでしょうか?アリマタヤ出身のヨセフがイエスさまの遺体を引き取ったことは、他の福音書、マタイ、ルカ、ヨハネにも書かれています。それらの福音書も見てみますと、ヨハネによる福音書には、このようなことが書かれています(ヨハネ19章38節)。
19:38 その後、イエスの弟子でありながら、ユダヤ人たちを恐れて、そのことを隠していたアリマタヤ出身のヨセフが、イエスの遺体を取り降ろしたいと、ピラトに願い出た。ピラトが許したので、ヨセフは行って遺体を取り降ろした。
アリマタヤ出身のヨセフは、イエスさまの弟子であった、ということが、この福音書には、はっきりと書かれています。そればかりか、このようなことも書かれています。「イエスの弟子でありながら、ユダヤ人たちを恐れて、そのことを隠していたアリマタヤ出身のヨセフ」。ヨセフは、イエスさまの弟子ではありましたが、ユダヤ人たちを恐れて、そのことを隠していた、というのです。なぜ、隠していたのか、というと、恐れがあったからです。同じユダヤ人たちから、イエスさまの弟子であるということで批判されること、自分の立場が悪くなること、そういう恐れでしょうか。弟子であることを隠していた。私たちは、そのことを知ると、アリマタヤ出身のヨセフというのは、たいしたことのない弟子だった、と思うでしょうか。それとも、私と同じような者だ、と共感された方があるかもしれません。
私は、今日の聖書個所に書かれていた「勇気を出して」ということに注目したいと思います。アリマタヤ出身のヨセフは、ユダヤ人たちを恐れて、自分がイエスさまの弟子であることを隠していたのに、勇気を出して、イエスさまの遺体を引き取ることを公にしたのです。遺体を引き取るということ、それは、自分がイエスさまの弟子であるとか、親しい存在、関係者であるということを明らかにするということです。どうして、勇気を出すことができたのでしょうか。同じ43節には、「この人も神の国を待ち望んでいたのである」と書かれています。アリマタヤ出身のヨセフは、神の国を待ち望む人でした。今まで、ユダヤ人たちを恐れていた。人の目を恐れ、気にして、イエスさまの弟子であることを隠していた。けれども、彼に勇気が与えられたのです。彼に勇気を与えたのは、神の国を待ち望む信仰です。イエスさまの公生涯、福音宣教の第一声はこのような言葉でした。「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(1章15節)。神の国とは、天の国、天国のことです。天国というと、私たち人間が死んだら行くところと考えます。しかし、聖書は、「神の国は近づいた」とありますように、天国が私たちに近づいてくる、というのです。天国がやって来た。これはどういうことかというと、救い主イエスさまが私たちのところにおいでになった、ということです。
アリマタヤ出身のヨセフは、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」。このイエスさまの言葉を思い出したのです。この私のために、イエスさまがおいでになった。そのことを思い起こしたのです。それで、彼は勇気を出して、イエスさまの遺体を引き取ること、つまり、自分がイエスさまの弟子であることを公に表しました。イエスさまの言葉が彼に勇気を与えたのです。
さて、16章からは、安息日が終わり、イエスさまの遺体に香油を塗りに出かけた女性たちのことが書かれていました。
16:1 安息日が終わると、マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメは、イエスに油を塗りに行くために香料を買った。16:2 そして、週の初めの日の朝ごく早く、日が出るとすぐ墓に行った。16:3 彼女たちは、「だれが墓の入り口からあの石を転がしてくれるでしょうか」と話し合っていた。
墓の入り口には、墓をふさぐための大きな石がありました。彼女たちの力では、その石を転がすことはできません。「だれが墓の入り口からあの石を転がしてくれるでしょうか」と女性たちは、嘆きとも思える言葉を話していました。しかし、そこで話は終わりませんでした。
16:4 ところが、目を上げて見ると、石は既にわきへ転がしてあった。石は非常に大きかったのである。16:5 墓の中に入ると、白い長い衣を着た若者が右手に座っているのが見えたので、婦人たちはひどく驚いた。
 何と、石は既にわきへ転がしてあった、ということです。そこで彼女たちは、墓の中に入ります。そこには、白い長い衣を着た若者が右手に座っていた、ということで、彼女たちは驚きます。
16:6 若者は言った。「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である。16:7 さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる』と。」
 この若者は言います。イエスさまは墓にはおられない。イエスさまは復活された。復活されたイエスさまについて、弟子たちに告げるように、と若者は言います。「あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる」。復活されたイエスさまは、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。そして、「かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる」と言いました。かねて言われたこと。そのことについて、マルコによる福音書14章28節に、このように書かれています。「わたしは復活した後、あなたがたより先にガリラヤへ行く」。イエスさまは、十字架にかかる前に、すでに復活されること、ガリラヤへ行かれることをお話しされていました。
 ガリラヤというのは、イエスさまが福音を宣べ伝えることを始められた場所です。先ほど、イエスさまが福音宣教を始められた時の言葉を読みました。「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」。その聖書個所を開いていただきますと、イエスさまがガリラヤで福音宣教を始められた、ということが書いてあります。そういうことを考えますと、ガリラヤへ行く、というのは、イエスさまがご自分の弟子たちに、もう一度、みんなで福音を宣べ伝えましょう、と言われたことなのではないでしょうか。
イエスさまが十字架におかかりになった時、ほとんどの弟子たちはイエスさまのもとから離れてしまいました、逃げてしまいました。アリマタヤ出身のヨセフも、自分がイエスさまの弟子であることを隠してしまいました。でも、そういう弟子たちに、「あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる」と墓の中の若者は言いました。この若者というのは、天使です。天使というのは、神さまのお使い、神さまの言われたことを人々にお伝えする者です。ガリラヤでイエスさまにお会いできる。それは、「私はガリラヤで待っていますよ。あなたがたは恐れや不安のために、私から離れてしまったけれど、私はあなたがたを見捨てません。あなたがたと一緒にやり直したい。あなたがたと一緒に神さまの福音、喜びのお知らせをしましょう」。イエスさまからの招きの言葉なのではないでしょうか。

(むすび)
16:8 婦人たちは墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである。 
お読みしましたマルコによる福音書では、他の福音書と違って、「だれにも何も言わなかった。恐ろしかったから」と書いてあります。マルコによる福音書は、ここで終わっていると言われます。最後の8節に書かれていることは、墓の中であった出来事がどんなに驚くようなことであったかを生々しく表しているように思えます。そして、少し時間が経ってから、9節以下にありますように、これは後になって、他の福音書を参考にして、加えられた言葉だそうですが、彼女たちはやがて、口を開き、イエスさまの復活を伝えていったのです(16章10節)。
イエスさまは復活されました。復活されたイエスさまを今、私たちは見ることはできませんが、イエスさまは、イエスさまの復活を信じられなかったトマスにこう言われました。「信じない者ではなく、信じる者になりなさい」(ヨハネ20章27節)、「見ないのに信じる人は、幸いである」(ヨハネ20章29節)。私たちも、このイエスさまの言葉を受けて、復活の主を信じて、この方と一緒に歩んでまいりましょう。

祈り
恵み深い主なる神さま
 神さまのみ子イエス・キリストは、私たちを罪から救うために、十字架にかかり、死なれました。しかし、主は三日目に復活され、今、私たちと一緒に歩んでくださっていることを感謝します。
 聖書は、見ないで信じることについて、このように語ります。「あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれています。それは、あなたがたが信仰の実りとして魂の救いを受けているからです」(一ペトロ1章8、9節)。
 私たちはこれからも復活の主と一緒に福音を宣べ伝えます。魂の救いを受ける方がありますように、どうぞ、導いてください。
私たちの救い主イエス・キリストのみ名によってお祈りします。 アーメン

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