MESSAGE

説教(メッセージ)

  1. HOME
  2. ブログ
  3. 説教
  4. 2020年8月2日 主日礼拝(朝・夕拝)説教 「恵みを受けるために」

2020年8月2日 主日礼拝(朝・夕拝)説教 「恵みを受けるために」


聖書―マルコによる福音書7章24~30節
(はじめに)
 ある方がこのようにおっしゃいました。神さまは私たちのすべてをご存じだから、私たちの心の中のいっさいをご存じだから、私たちは神さまに特に祈る必要はないのではないか、何もお願いしたり、求める必要はないのではないか、ということです。私はその方に一つの聖書の箇所からお答えしました。「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい」(フィリピ4章6節)。「求めているものを神に打ち明けなさい」。神さまに求めていること、願っていることを打ち明けることは神さまが望んでおられることではないか、ということと、私たちは神さまに対して、はっきりと求めていることを意思表示することは大事なことではないかとお答えしました。
 今日お読みしました聖書の箇所にも、イエスさまに対して、はっきりと自分の求めるところを言い表した人のことが記されています。そして、そのことを主は喜ばれました。求める心を主は喜ばれる。マルコによる福音書7章24節から、共に聴いてまいりましょう。

(聖書から)
 イエスさまはティルスの地方に行かれた、ということが今日の聖書の箇所に記されていました。この地は聖書の舞台であるユダヤのユダヤ人にとっては異邦の地、真の神さまを知らない人たちの地でした。「ある家に入り、だれにも知られたくないと思っておられたが、人々に気づかれてしまった」(24節)とあります。イエスさまはここで誰にも知られないようにして、一人過ごされようとされましたが、それはできなかった、ということです。イエスさまはこの時、福音を伝える多忙な毎日を過ごしておられ、しばしの休息を求めてこのティルスの地方に行かれた、と考えられます。ところが、イエスさまのことはこの異邦の地でも知られていて、人々がイエスさまのもとに押し寄せてきたようです。そこに一人の女性がやって来ました。このことについて、25節には、このように記されています。「汚れた霊に取りつかれた幼い娘を持つ女が、すぐにイエスのことを聞きつけ、来てその足もとにひれ伏した」(25節)。この女性はイエス様の足もとにひれ伏した、ということから、自分の娘のことを何とかしてほしい、という強い思いがあったことが想像できます。26節には、この女性がギリシア人で、シリア・フェニキヤの出身で、自分の娘を助けてほしいと願ったことが記されています。今日お読みした箇所と同じ内容の聖書箇所がマタイによる福音書15章21節以下にありますが、そこではこの女性のことを「カナンの女」と記しています。
 自分の娘のことで助けを求めるこの女性に向かって、イエスさまはこのように言われました。「まず、子供たちに十分食べさせなければならない。子供たちのパンを取って、小犬にやってはいけない」(27節)。この言葉を読むと、イエスさまは「子供たち」とか、「小犬」という言葉を使っていますが、これはあることに例えて、話しているのです。「子供たち」というのは、何かといいますと、ユダヤ人たちのことです。イエスさまご自身、ユダヤ人としてお生まれになり、その同じ民族であるユダヤ人たちに神さまの福音を伝えることを使命とされました。それで「まず、子供たちに十分に食べさせなければならない」と言われました。私たちも、まず、私たちの身近な人へ、同じ地に住む人へ、福音を伝えることを考えるのではないでしょうか。ですから、イエスさまがおっしゃったことは当然のことのように思います。イエスさまもまず、ご自分のまわりの人たちへ、身近にいる人たちへ、まず、福音を伝えられたのです。
 ところが、このイエスさまの言葉で、引っかかる、不思議に思う言葉があります。それはこの言葉のすぐ後におっしゃったこの言葉です。「子供たちのパンを取って、小犬にやってはいけない」。「子供たち」とはユダヤ人のことであるとお話ししましたが、ユダヤ人にあげるパン、つまり、命のパンである福音を小犬にやってはいけない。この「小犬」というのは、ユダヤ人以外の人たち、異邦人のことです。
 ユダヤ人は異邦人のことを、異邦人は神の民ではない、神さまから離れている人たちであると考えていました。異邦人のことを「犬」と呼んで軽蔑していたそうです。すると、イエスさまも同じように、この女性に向かって、軽蔑の意味で「犬」と呼んだのでしょうか。ところで、ここでイエスさまは異邦人のことを「犬」ではなく、「小犬」と呼んでいます。「小犬」というのはユダヤ人が家で飼っていたペットのことを意味するのだそうです。ですから、ここから考えられることは、イエスさまの異邦人に向けられたまなざしというのは、ユダヤ人であろうが、異邦人であろうが、神さまが造られた、神さまが愛された人であるというものであったということです。
 イエスさまは先にいいましたように、まず、同じ民族であるユダヤ人に福音を伝えることを考えられました。すると、イエスさまは、この異邦人の女性を拒絶されたというよりは、ご自分が福音を伝える計画を示された、ということになると思います。しかし、このようにおっしゃったイエスさまに対して、この女性は「主よ、しかし、食卓の下の小犬も、子供のパン屑はいただきます」(28節)と言いました。この女性はあきらめないで、このように言ったのです。
 イエスさまがユダヤの人々に福音を伝えられた様子、そして、イエス様の弟子たち、使徒たちが福音を伝えられた様子については、福音書や使徒言行録に記されています。しかし、多くの人たちが福音を受け取ることをしないで、イエスさまや弟子たちが語られた福音をパン屑のようにして、捨ててしまいました。しかし、この女性はパン屑として捨てられた福音をこれこそはこの私を生かすものであると必死で求めたのです。私たちも、福音がどんなに価値あるものか、私たちを生かすものであるか知っているはずです。一人でも多くの人と分かち合っていきたいと思います。
 この女性は小犬もパン屑はいただきます、と言いました。あきらめないで、どこまでも、求めていく心、信仰です。ルカによる福音書11章5節以下には、イエスさまが祈りについて教えられた後、祈り求めることについて、一つの例え話を話された記事がありますので、その聖書の言葉を読んでみます。
「あなたがたのうちのだれかに友達がいて、真夜中にその人のところに行き、次のように言ったとしよう。『友よ、パンを三つ貸してください。旅行中の友達がわたしのところに立ち寄ったが、何も出すものがないのです。』すると、その人は家の中から答えるにちがいない。『面倒をかけないでください。もう戸は閉めたし、子供たちはわたしのそばで寝ています。起きてあなたに何かをあげるわけにはいきません。』 しかし、言っておく。その人は、友達だからということでは起きて何か与えるようなことはなくても、しつように頼めば、起きて来て必要なものは何でも与えるであろう。そこで、わたしは言っておく。求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。 だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる」(ルカ11章5~10節)。しつように願ったところ、この友達は起きて必要なものを出してくれた、という話です。これと同じように、神さまに祈り求めなさい、とイエスさまは教えられました。この女性はあきらめませんでした。どこまでも、求め続けたところ、主は喜んで、彼女の求めに答えられました。あきらめないで祈り求めることが今日の聖書が示していることです。

(むすび)
 今日お読みしました聖書の言葉、一人の女性が娘の病のことで必死に主を求めました。主はまず、ご自分は福音を子供たちに、ユダヤ人に伝えるべきであると言われました。女性はそのことを受け止めながらも、しかし、小犬もそのパン屑はいただきます、と言いました。あきらめないで求めた。このことを主は喜ばれ、「それほど言うなら、よろしい。家に帰りなさい。悪霊はあなたの娘からもう出てしまった」(29節)と言われました。「それほど言うなら、よろしい」。口語訳聖書では「その言葉で、じゅうぶんである」となっています。
 「主よ、しかし、食卓の下の小犬も、子供のパン屑はいただきます」。この女性の言葉から分かることは、彼女はイエスさまを「主よ」と呼んでいることです。彼女は異邦人でしたが、その地にも福音は、イエスさまのことは伝わっていて、彼女は主を求め、福音を求めたのです。主はこの女性の必死で求める心を受け止められて、こう言われたのです。「それほど言うなら、よろしい」、「その言葉で、じゅうぶんである」。
私たちは神さまの前には、自分の語ること、行うこと、私たちの信仰、そのどれもが不完全で、不十分で、神さまに対して、私にはこれだけしかできません、これだけしかありません、これだけしか分かりません、と言わざるを得ないような者です。しかし、何ができなくても、何がなくても、まだ何も分からなくても、主を求める心があればよいのです。その祈り求める心を「その言葉で、じゅうぶんである」、「それほど言うならよろしい」と言ってくださるのです。そして、主は私たちの祈りに応えてくださるのです。そのことをおぼえて、主に感謝して、安心して、主に従っていきたいと思います。

祈り
恵み深い天の父なる神さま
 今日も私たちは主のもとに集まり、礼拝をささげています。
 ただいま、イエスさまは病に苦しむ娘を助けてほしいと願う一人の女性の必死の求めを聴かれ、癒やされた箇所を読みました。
 私たちは求める前から、あきらめてしまったりすることがあるかもしれません。しかし、私たちもこの女性のように「主よ、しかし、食卓の下の小犬も、子供のパン屑はいただきます」とどこまでも求め続けていく信仰を与えてください。
主は言われました。「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。 だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる」。私たちも求め、探し、門をたたき、主の恵みにあずかる者としてください。
私たちの救い主イエス・キリストのみ名によってお祈りします。 アーメン

  • コメント ( 0 )

  • トラックバックは利用できません。

  1. この記事へのコメントはありません。

関連記事

記事一覧

カテゴリー