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【礼拝説教】2023年3月12日「はっきり見えるようになるために」

2023年3月12日(日)(朝・夕)赤塚教会礼拝説教「はっきり見えるようになるために」マタイによる福音書7章1~6節

聖書―マタイによる福音書7章1~6節
(はじめに)
 教会暦、教会のこよみでは、ただいまレントの時を過ごしています。レントとは、英語のLentの音訳ですが、四旬節、受難節と言われます。レントの期間は、イエスさまが復活されたことをお祝いするイースター(復活祭)前の日曜日を除く40日間ですが、それはイエスさまが荒れ野で悪魔の誘惑を受けられた40日からきています(マタイ4章2節参照)。今年のイースターは4月9日です。私たちは、その日に備えて、一日一日、イエスさまがこの私のために、この私を罪から救うために十字架にかかってくださった。イエスさまの救いのみわざをおぼえて、過ごしていきたいと思います。

(聖書から)
 お読みしました聖書の箇所は、マタイによる福音書7章1~6節です。新共同訳聖書では、「人を裁くな」という小見出しが付けられています。マタイによる福音書は5章から7章までが、「山上の説教」と言われる内容です。幸いについての説教から始まって、今日の箇所では、「人を裁くな」、この言葉から始まっています。
1、2節をお読みします。
7:1 「人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである。7:2 あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられる。
 イエスさまは、「人を裁くな」と言われます。なぜ、人を裁くな、と言われたかというと、「あなたがたも裁かれないようにするため」ということが言われています。2節にも、「自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられる」とあります。あなたが、人を裁くなら、あなた自身も裁かれることにある。そういうふうに理解できます。すると、裁かれないために、裁くことをやめなさい、ということになるでしょうか。
 ところで、この1、2節を読んでみて、気になることがあります。それは、「裁かれないようにするため」、「裁かれ」、「量り与えられる」というのは、誰のことか言われていないのです。誰が、この私を裁くのか、量り与えるのか、そのことがここには、何も言われていないのです。
 ここで、私たちは、「裁き」ということについて、考えてみたいと思います。裁きというのは、審判するということです。スポーツなどを観ますと、必ず、審判がいます。その競技のルールにのっとって、審判は判定します。聖書は、私たちの審判は誰であるかを教えています。それは、神さまだというのです。それなのに、私たちは、自分が審判になっていることがあります。そうしますと、1、2節で言われていたこと、誰が私たちを裁くのか、量り与えるのか、というと、それは神さまなのです。ですから、ここで言われていることは、あなたがたは、自分が裁き主、審判者のようになって、他人を裁いたり、自分自身を裁いたりすることがあるけれども、本当の裁き主、審判者は神さまなのだ、ということです。
 これに続いて、イエスさまは次のように語られます。
7:3 あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。7:4 兄弟に向かって、『あなたの目からおが屑を取らせてください』と、どうして言えようか。自分の目に丸太があるではないか。7:5 偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からおが屑を取り除くことができる。
 「兄弟の目にあるおが屑」、そして、「自分の目の中の丸太」。これはどういう意味でしょうか。私たちは他人のおが屑のように小さな欠点を見ると、批判したくなります。一方で、自分の丸太のように大きな欠点には気づかないことが多いものです。それなのに、自分の目の中の丸太には気づかないで、「あなたの目からおが屑を取らせてください」と言ってしまうのです。自分のことは棚上げにして、他人のことばかり批判してしまうのです。
 イエスさまは、このように言われました。「偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からおが屑を取り除くことができる」。「偽善者」というのは、とても厳しい言葉のように聞こえます。イエスさまから、「あなたは偽善者だ!」と言われると、しんどくなりますが、前にもお話ししましたが、この言葉の元の意味は、俳優、役者という意味です。俳優、役者は与えられた役を演じます。本当の自分ではない者を演じます。ですからイエスさまが「偽善者」と言われたのは、あなたは本当の自分に立ち帰りなさい、という意味です。では本当の自分とは何でしょうか。本当の自分、それは神さまの前に不完全な一人の罪人。そして、神さまの愛によって、罪を赦され生かされている者ということです。私たちはイエスさまからの呼びかけ、「あなたは本当の自分に立ち帰りなさい。あなたは赦された罪人なのだ」、この呼びかけに耳を傾けたいと思うのです。
 イエスさまは、このように言われました。「まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって」。この「まず自分の目から・・・」ということが大事です。あの人が、この人が・・・、と言って、自分のことをおろそかにしてしまう私たちですが、まず、自分から始めるのです。ここには、丸太を取り除くように、とありました。先ほどは、この丸太ということについて、大きな欠点と言いました。欠点というと、私たちはお互いに欠点、欠けを持っています。これはなかなか直しようがないことですが、その欠点のために、誰かを苦しめたり、悩ませたりしているならば、それは改善するように努めなければならないと思います。でも、改めて、ここでイエスさまが言われた意味を考えますと、ここで言われているのは、欠点ということではなくて、もっと大きな問題、罪について言われているのではないかと思います。あなたの中の罪を取り除きなさい。そうすれば、はっきり見えるようになる。
 自分の欠点を直すというのは、なかなか難しいことですが、自分の中の罪を取り除くというのは、さらに難しいことなのです。それなのに、イエスさまは、あなたの中の丸太、それも大きな丸太を取り除け、と言われる。どうしたらよいのでしょうか?私たちの中の大きな丸太、罪はとても重いのです。自分では、その丸太を、罪を取り除く力はないのです。
 最初にお話ししましたが、ただいま私たちはレント、受難節の時を過ごしています。受難とは何かというと、イエスさまが十字架におかかりになったことです。イエスさまが十字架におかかりになった。それは何のためでしょうか?誰のためでしょうか?この私のためなのです。この私を罪から救い出すために、主は十字架におかかりになったのです。
 私たちの中の大きな丸太、罪はあまりにも大きく、重いのです。それは自分ではどんなに努力しても、取り除くことはできないのです。しかし、ただ一人、その私の罪を取り除くことができる方がおられる。それはイエスさまです。イエスさまは、この私の罪を取り除くために十字架におかかりになりました。
 この私の罪を取り除く。そのことで、私たちにできることは何でしょうか?私たちは、自分の力で罪を取り除くことはできませんが、祈ることはできるのです。この私を罪から救ってください、と神さまに祈ることができるのです。神さまはその祈りに応えてくださって、私たちを罪から救い出してくださるのです。そして、私たちははっきり見えるようになるのです。イエスさまによる罪からの救いを知り、イエスさまの大きな愛を知るのです。
 「はっきり見えるようになって、兄弟の目からおが屑を取り除くことができる」とありました。私たちは他人の罪を取り除くことはできません。でも、私ははっきり見えるようになった。イエスさまの救いを知った。イエスさまの愛を知った。そうであるならば、私たちは、イエスさまの十字架の救いをお伝えするのです。私のために、あなたのために、イエスさまは十字架にかかってくださり、私を、あなたを罪から救ってくださった。そのことをお伝えするのです。

(むすび)
6節をお読みします。
7:6 神聖なものを犬に与えてはならず、また、真珠を豚に投げてはならない。それを足で踏みにじり、向き直ってあなたがたにかみついてくるだろう。」
 この言葉は、イエスさまの福音をどれだけ伝えても、神聖なもののありがたさを知らない犬、真珠がどれだけ高価なものかを知らない豚のように、多くの人たちは、福音に耳を傾けようとはしない・・・。そういう意味で理解されるかもしれません。しかし、先ほどの自分の目の中の丸太の話を受けて読むならば、ここも他人のことではなくて、自分自身のこととして聞いていきたいと思います。私たちは、せっかく、福音を信じ受け入れたのに、世の思い煩いによって、また目に見えるものによって、心の目がふさがれてしまい、それがどんなにありがたいものか、高価なものであるか見えなくなってしまうことはないでしょうか。私の心の目が神さまの救いの恵みを見失うようなことがありませんように、いつも、はっきり見えるように、どうか、罪からお守りください、と祈りつつ、歩んでいきましょう。

祈り
恵み深い主なる神さま
  主は「人を裁くな」と言われました。他人を裁いている時、私たちは自分が裁き主、審判者になっています。神さまの愛と赦しを見失っています。
 どうか、まず、自分の中の丸太、罪に気づき、主が十字架におかかりになることによって、罪を取り除いてくださったことを思い起こし、主の愛と赦しに生きる者にしてください。
私たちの救い主イエス・キリストのみ名によってお祈りします。 アーメン

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