【巻頭言】2020年8月23日 それほど言うなら(マルコ7章24~30節)
一人の女性が娘の病のことで必死に主を求めました。主はまず、ご自分は福音を子供たちに、ユダヤ人に伝えるべきであると言われました。女性はそのことを受け止めながらも、しかし、小犬もそのパン屑はいただきます、と言いました。あきらめないで求めた。このことを主は喜ばれ、「それほど言うなら、よろしい。家に帰りなさい。悪霊はあなたの娘からもう出てしまった」(マルコ7章29節)と言われました。「それほど言うなら、よろしい」。口語訳聖書では「その言葉で、じゅうぶんである」となっています。
「主よ、しかし、食卓の下の小犬も、子供のパン屑はいただきます」(同28節)。この女性の言葉から分かることは、彼女はイエスさまを「主よ」と呼んでいることです。彼女は異邦人でしたが、その地にも福音は、イエスさまのことは伝わっていて、彼女は主を求め、福音を求めたのです。主はこの女性の必死で求める心を受け止められて、こう言われたのです。「それほど言うなら、よろしい」、「その言葉で、じゅうぶんである」。
私たちは神さまの前には、自分の語ること、行うこと、私たちの信仰、そのどれもが不完全で、不十分で、神さまに対して、私にはこれだけしかできません、これだけしかありません、これだけしか分かりません、と言わざるを得ないような者です。しかし、何ができなくても、何がなくても、まだ何も分からなくても、主を求める心があればよいのです。その祈り求める心を「その言葉で、じゅうぶんである」、「それほど言うならよろしい」と言ってくださるのです。そして、主は私たちの祈りに応えてくださるのです。そのことをおぼえて、主に感謝して、安心して、主に従っていきたいと思います。
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