【週報巻頭言】2020年10月18日 キリストのために苦しむとは?(フィリピ1章27~30節)
六月に教会で結婚式を行いました。新型コロナのことがあって、結婚式場で行う予定だったのができなくなった、ということでした。司式者である私と新郎新婦、みんなマスクを着けたまま、結婚式を行いました。結婚式では誓約をいたします。神さまの前に夫婦が誓いを立てるのです。新郎、新婦、それぞれに牧師がこのように尋ねます。「あなたは今からのち、幸いな時も災いの時も、豊かな時も貧しい時も、健やかな時も病む時も、互いに愛し、互いに助け合って、生涯を送ることを約束しますか」(日本基督教団 式文 〔試用版〕)」。すると、新郎も新婦も大きな声で、「はい、約束します!」と答えてくださいました。これがもし、「いいえ、私は幸いな時だけ、豊かな時だけ、健やかな時だけならいいですが・・・」何て答えたらどうでしょう。そんな結婚、そんな家族は嫌でしょう?それは愛の関係ではありませんね。
イエスさまは信じるけれど、イエスさまのために苦しむのは嫌だ!私たちは正直、そう思うかもしれません。でも、イエスさまの側のことを考えてみてください。この講壇に十字架があります。教会の建物のてっぺんにも十字架があります。これはイエスさまが私たちを罪から救うために十字架に掛かり、苦しみ、死んでくださったことを表しているのです。イエスさまは私たちのために苦しんでくださった。そればかりか、死んでくださったのです。イエスさまの歩みから知らされること、そして、もう皆さんも既に家族との関係などで体験しておられるかもしれません。それは愛するということは苦しみが伴うということです。イエスさまは私たちを愛するがゆえに苦しまれたのです。そして、そのことを知る私たちもイエスさまの愛に倣って生きるのです。それが「キリストのために苦しむ」ということです。
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