MESSAGE

説教(メッセージ)

  1. HOME
  2. ブログ
  3. 説教
  4. 2020年10月25日 主日礼拝(朝・夕拝)説教 「共に喜ぶ者として」

2020年10月25日 主日礼拝(朝・夕拝)説教 「共に喜ぶ者として」


聖書―フィリピの信徒への手紙2章12~18節
(はじめに)
聖書の中のよく知られたみ言葉の一つに「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい」(ローマ12章15節)という言葉があります。私は小学生の時、教会学校でこのみ言葉の書かれた豆カードをもらいました。豆カードというのは、名前の通り、小さなカードでそこに聖書の言葉とその言葉を表す絵がありました。喜んでいる人と一緒に喜ぶ。泣いている人と一緒に泣く。何人かの人が一緒に喜んでいる、泣いている、そういう絵だったと思います。言葉だけでなく、絵で見ると覚えているものですね。
嬉しいことがあった人とその嬉しいことを一緒に分かち合う。悲しいことがあった人とその悲しみを一緒に分かち合う。それはとても麗しい姿だと思います。今日の聖書の箇所にも「共に喜ぶ」、「一緒に喜ぶ」ということが書いてありました。今日は午前11時の礼拝で河合昭代さんがイエス・キリストを救い主と信じます!と信仰告白をされました。イエスさまと出会い、これからの人生をイエスさまと一緒に歩まれること、本当に嬉しいことです。このことを私たちも一緒に喜びたいと思います。

(聖書から)
お読みしました聖書の箇所はフィリピの信徒への手紙2章12~18節です。この箇所の最初の部分はこのようなことが書かれています。
2:12 だから、わたしの愛する人たち、いつも従順であったように、わたしが共にいるときだけでなく、いない今はなおさら従順でいて、恐れおののきつつ自分の救いを達成するように努めなさい。
ある人がこの箇所について、こう書いていました。パウロはフィリピの教会の人たちにとても素晴らしい言葉で呼びかけていると。もう一度、パウロのフィリピの教会の人たちに対する呼びかけの言葉を見てみましょう。「わたしの愛する人たち」とあります。この手紙をもらって、フィリピの教会の人たちは嬉しかったと思います。自分たちのことを「わたしの愛する人たち」と言っているのですから。
パウロはフィリピの教会の人たちにこう言っています。「いつも従順であったように、わたしが共にいるときだけでなく、いない今はなおさら従順でいて、恐れおののきつつ自分の救いを達成するように努めなさい」。「従順」ということが言われています。従順、手元にある辞書には「おとなしくすなおなこと。すなおで、人に逆らわないこと」(岩波国語辞典第八版)とありましたが、これはだれに対する従順だったのでしょうか?パウロに対する従順だったのでしょうか?いいえ、ここでパウロが言っているのは、神さまに対する従順です。パウロがいる時だけでなく、パウロがいない時も従順であるように、と言っているのです。
フィリピの教会はパウロの福音宣教によって建てられたと言われています。すると、フィリピの教会の人たちにとって、パウロは敬愛する人であったと思います。でも中にはパウロあっての信仰と考え、まだ信仰が自立していない人がいたかもしれません。そういうフィリピの教会に向かって、パウロは信仰の成長、自立を促しているのです。
信仰生活というのは、人間が成長する過程と同じです。私たちは生まれて間もなくは自分だけで生きていくことはできません。家族、親に愛され、支えられ、成長していきます。信仰生活も同じで、最初は牧師や先輩クリスチャンに支えられながら、少しずつ成長していきます。そして、成長して自立していくと、今度は自分の後に信仰を持った人たちを支えていくことになります。
12節の後半には、「恐れおののきつつ自分の救いを達成するように努めなさい」とあります。先ほどは「従順」ということに触れました。私たちは神さまに対して従順であるように、素直であるように、ということです。神さまの言葉に心の耳を傾け、そこから知らされる神さまのみ心、お考え、それに従って歩むのです。「恐れおののきつつ」というのも神さまに対しての態度です。ある先生は「恐れおののく」とは自分が神ではないということを認めることであると言っています。私たちは自分が神さまなどと思うはずはないと思うかもしれませんが、いえいえ、自分を神さまにしてしまうことが度々あるのです。ローマの信徒への手紙16章18節に「わたしたちの主であるキリストに仕えないで、自分の腹に仕えている」、フィリピの信徒への手紙3章19節には「彼らは腹を神とし」とあります。ここで言う「腹」というのは、自分の考え、主張といったものです。神さまのみ心を求めないで、自分の考え、主張を神さまよりも大切なものと考えてしまうのです。「恐れおののきつつ」。私の考え、主張を持つことはかまいません。けれども、それよりも第一とするものがあるはずです。それよりも優先させるものがあるはずです。私はこう考える、私はこう思う。でも神さまのみ心は・・・。私たちはそのことをいつも自問自答していくのです。
そして、「自分の救いを達成するように努めなさい」。この「達成」という言葉を「完成」と言う人もいます。救いの達成、完成。今日は河合さんが信仰告白をされました。これは救いのスタートです。そして、ゴール、救いの達成、完成に向かって歩まれます。皆さんもその途上にある一人一人です。今年は新型コロナのため、東京オリンピックは延期になりましたが、オリンピックの昔の会長でクーベルタンという人がいました。この人が言った言葉が有名です。それは「参加することに意義がある」という言葉です。信仰生活も同じです。途中でやめてしまわないことです。どんなことがあっても参加し続ける、歩み続けるのです。神さまが私たちを完走させてくださいます。救いの達成、完成へと導いてくださいます。私たちの人生のレースはイエスさまが伴走者となってくださいます。次に13節をお読みします。
2:13 あなたがたの内に働いて、御心のままに望ませ、行わせておられるのは神であるからです。
「あなたがた」というのは私たちのことです。私たちの内に神さまが働いてくださっているのです。そして、この方が「御心のままに望ませ」。神さまのみ心に適ったことを私たちに望ませてくださる。口語訳聖書では「願いを起させ」となっていました。神さまのみ心に適った願いを起こさせてくださるというのです。そして、それを実際に行わせてくださるというのです。私たちはいろいろな願いを持ち、そのことを神さまにお祈りします。私の願いを聞いてください!と祈ります。神さまは私たちが必要なものが何であるかを知っておられ、与えてくださいます。しかし、ここには「御心のままに望ませ」、「願いを起させ」とありますように、神さまのみ心に適った望み、願いのことが言われています。これについては、私たちはまず、神さまに聴く、お尋ねするという祈りが大事だと思います。神さま、あなたが私たちに求めておられることは何でしょうか?そういう祈りを私たちの祈りとしていくのです。そのように祈っていくうちに、神さまの願っておられること、求めておられることが私たちにとっても願いとなり、求めとなっていきます。先週の説教でお話ししました「キリストの心を心とする」(2章5節の文語訳「汝らキリストの心を心とせよ」)ということです。イエスさまの心と私たちの心が一つになっていくのです。
16節には「命の言葉をしっかり保つ」とありました。口語訳では「いのちの言葉を堅く持って」(口語訳では15節)、新改訳2017では「いのちのことばをしっかり握り」とそれぞれ味わい深い翻訳になっています。これが、私たちがキリストの心を心とする秘訣です。「命の言葉」とは、神さまの言葉です。皆さんのお手元にある聖書のことです。この聖書の言葉は私たちの命を守る。私たちを生かす言葉です。これを読み、これに聴くのがイエスさまを信じる人の生活です。
先週の水曜日の祈祷会でコヘレトの言葉7章を学びました。その中に「人の言うことをいちいち気にするな。そうすれば、僕があなたを呪っても/聞き流していられる」(コヘレト7章21節)という言葉がありました。人の言うことを気にしてしまう。そうならないためにはどうしたらよいでしょうか?人の言うことではなく、神さまの言われること、神さまの言葉に支配されることです。ある方は、幼いときから、家族からずっと自分を否定するような言葉を聞いて育ちました。そして、自分は生きていても仕方がない、と思うようになりました。ある時、教会で聖書の言葉に出会いました。「わたしの目にあなたは価高く、貴く わたしはあなたを愛し あなたの身代わりとして人を与え」(イザヤ43章4節)。ここに書かれていることは神さまが私たち人間を価値ある者、貴い存在としておられる。愛しておられる。それゆえ、神さまのみ子であるイエスさまを送り、私たちを罪から救い出す、ということだと知りました。神さまは私を価値ある者、貴い存在であると言われ、この私のためにイエスさまは命をささげてくださった。そのことを知ったとき、この方は、いろいろなことはあるけれど、それでも生きていこうと思った、というのです。神さまの言葉は命の言葉です。

(むすび)
17、18節の言葉をお読みします。「たとえわたしの血が注がれるとしても、わたしは喜びます。あなたがた一同と共に喜びます。同様に、あなたがたも喜びなさい。わたしと一緒に喜びなさい」。ここで「わたしの血が注がれるとしても」というのは、パウロ自身のことです。パウロがイエスさまの福音を伝えるために命を失うこと、殉教することが言われています。たとえ、自分が殉教をするようなことがあっても、私は喜ぶ、というのです。ところで、パウロにとっての喜びとは何だったでしょう?2章1、2節をお読みします。
2:1 そこで、あなたがたに幾らかでも、キリストによる励まし、愛の慰め、“霊”による交わり、それに慈しみや憐れみの心があるなら、2:2 同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして、わたしの喜びを満たしてください。
ここに「わたしの喜び」とあります。パウロの喜び、それは先ほどから話してきたことです。フィリピの教会の人たちがキリストと同じ思いになること、キリストと同じ愛を抱くこと、キリストの心に生きることです。それが私の喜びなのだ、と言っているのです。この喜びを共に、一緒にあなたがたも喜んで欲しいと言っているのです。パウロはイエス・キリストを信じて生きる人生こそが最高の人生であると信じていたから、このように言えたし、このように生きることができたのだと思います。イエスさまを人生の主と信じて歩まれる方がありますようにお祈りいたします。

祈り
恵み深い私たちの主なる神さま
「喜びの手紙」と言われるフィリピの信徒への手紙からあなたのみ言葉を聴きました。パウロの喜び、それはフィリピの教会の信仰の成長、神さまに対する従順ということでした。パウロ自身が神さまと共に生きる喜びを知っていたからこそ、パウロは命がけでキリストの福音を伝え、教え、歩みました。どうか、新たに主を受け入れる方がありますように。
今日は私たちの教会にとって大きな喜びの日となりました。一人の姉妹がイエス・キリストを救い主と信じる告白をしました。主がこの姉妹と共に新しい人生を導いてください。
神さまは今日も生きて働いておられます。「あなたがたの内に働いて、御心のままに望ませ、行わせておられるのは神」とありました。私たちに神さまのみ心を示し、願いを起こさせ、行わせてください。
私たちの救い主イエス・キリストのみ名によってお祈りします。 アーメン

  • コメント ( 0 )

  • トラックバックは利用できません。

  1. この記事へのコメントはありません。

関連記事

記事一覧

カテゴリー