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2020年11月22日 主日礼拝(朝・夕拝)説教 「キリストを知ることのあまりのすばらしさ」

2020年11月22日(朝・夕)礼拝説教「キリストを知ることのあまりのすばらしさ」フィリピの信徒への手紙3章1~11節

聖書―フィリピの信徒への手紙3章1~11節
(はじめに)
 お読みしましたフィリピの信徒への手紙は「喜びの手紙」とも言われます。それはこの手紙の中に「喜ぶ」という言葉が何度も出てくるからです。このように聞きますと、この手紙を書き記したパウロという人には喜ぶことのできるような出来事が何度もあったのだろう、と考えるかもしれません。しかし、パウロがこの手紙を書き記した時、パウロはローマの牢獄にいた、と言われています。最近の説ではエフェソの牢獄であったとも言われていますが、いずれにしても、決して喜べるような状況や環境ではなかったわけです。では喜べるような状況、環境ではなかったのに、「喜ぶ」と書いていた、牢獄の中で喜んでいた、というのはなぜでしょうか?

(聖書から)
 今日はフィリピの信徒への手紙3章1節からお読みしました。さっそく最初の1節にも「喜ぶ」という言葉が出てきます。
3:1 では、わたしの兄弟たち、主において喜びなさい。同じことをもう一度書きますが、これはわたしには煩わしいことではなく、あなたがたにとって安全なことなのです。
 パウロはフィリピの教会の人たちに呼びかけます。「わたしの兄弟たち、主において喜びなさい」。教会では、お互いのことを兄弟姉妹と呼びます。皆さんのお手元にあります週報にも教会のメンバーのことを~兄(兄弟の意味)、~姉(姉妹の意味)と書いてあります。兄弟、姉妹というのはお互いが神さまの家族だからです。私は教会においでになっている方、すべてのことを~兄弟、~姉妹と呼びたいです。ですから、すべての人が「私は神さまによって造られた者、神さまに愛されている者、神さまの子どもであり、神さまの家族」。このことを信じ、受け入れてくださることを願って、祈り、福音を伝える働きに励んでいます。
 さて、ここでパウロが「わたしの兄弟」と言っているのは、兄弟姉妹ということです。教会の男性にも女性にも、みんなに呼びかけているのです。そして、こう言っています。「主において喜びなさい」。ここで注意したいのは、「喜びなさい」とだけ言っているのではありません。「喜びなさい」の前に「主において」という言葉があります。これがパウロにとっての喜びでした。主において喜ぶ。それはどういう喜びでしょうか。
 もう一度、1節をご覧ください。この節で言われていることは、主において喜ぶこと、それは私にとっては煩わしいことではなく、あなたがたにとっては安全なことなのだ、と言っています。岩波訳で読んでみますと、このように書いてありました。「主にあってあなたがたは喜びなさい。同じことをあなたがたに書くことは、私にとっては煩わしいことではなく、〔むしろ〕あなたがたを堅固にすることである」。新共同訳を含めて、他の訳では「安全」となっているところが「堅固」とありました。パウロは何度も繰り返し、主において喜びなさい、と書きました。それは自分にとっては煩わしいこと、面倒なこと(新改訳2017)ではありません。なぜなら、あなたがたが主において喜ぶならば、それはあなたがたを堅固に守る。あなたがたを安全に守る。だから、私は、主において喜びなさい。このことを喜んで語り続けるというのです。
 続く2節以下では、割礼の話題が出てきます。割礼とは、神さまの民とされたユダヤの人たちが自分たちが神さまの民とされたことを表すために男の子は生まれて八日後に割礼という性器の包皮を切り取るという儀式のことです。フィリピの教会の中には、ユダヤ人ではない人たち、異邦人と呼ばれる人たちは神さまを信じたならば、割礼を受けなければならない、と強要した人たちがいました。しかし、パウロはその必要はない、というのです。イエスさまがおいでになった今は新約の時代、恵みの時代、だから、イエスさまを救い主と信じるだけでいい。割礼は必要ないというのです。3節にこういうことが書いてあります。
3:3 彼らではなく、わたしたちこそ真の割礼を受けた者です。わたしたちは神の霊によって礼拝し、キリスト・イエスを誇りとし、肉に頼らないからです。
 パウロはもう割礼は必要ない。なぜなら、私たちは真の割礼を受けているのだから、と言うのです。真の割礼というのは、神さまの霊、聖霊によってイエスさまを信じたことを言っています。割礼を受けなければならない、と考えた人たちは肉に頼る人でした。肉に頼るというのは、人間的な力に頼るということです。彼らは、人生経験が豊富な人、有名な家柄の人、名門の学校を出た人などを重んじました。そうでない人を軽んじました。これに対して、パウロはこう言っています。
3:5 わたしは生まれて八日目に割礼を受け、イスラエルの民に属し、ベニヤミン族の出身で、ヘブライ人の中のヘブライ人です。律法に関してはファリサイ派の一員、3:6 熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については非のうちどころのない者でした。3:7 しかし、わたしにとって有利であったこれらのことを、キリストのゆえに損失と見なすようになったのです。
 このパウロこそ、いろいろな人間的な力を持っていた人、世の中のエリートコースを生きてきた人でした。しかし、世の中で生きていくうえでは有利であったこれらのことについて、キリストのゆえに損失と見なすようになった、と言っているのです。世の中では評価されるべきもの、価値あるものとされるもの、それらを損失と言っているのはなぜかというと、次の言葉から分かります。
3:8 そればかりか、わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。
 先ほどは「キリストのゆえに損失と見なすようになった」とありましたが、8節では「わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています」とあります。キリストを知ることのあまりのすばらしさのゆえに、他の一切を損失とみているというのです。言っていることは、イエス・キリストを知ることは世の中の何よりも価値あること、すばらしいことだ、ということです。
 新生讃美歌の521番は「キリストには替えられません」という賛美歌です。この賛美歌の一節の前半部分はこのような歌詞です。

  キリストには替えられません 世の宝もまた富も このお方がわたしに 代わって死んだゆえです

 キリストに出会った人の喜びが歌われています。私のために命を捨ててくださった方に出会った今は世の中のどんなものよりもキリストはすばらしいと言っています。
 パウロは、主において喜びなさい、と何度も繰り返し言いましたが、この主において喜ぶとは、このことなのです。私はイエス・キリストを知った!私のために命をささげてくださって、私を愛してくださったイエスさまを知った!イエスさま、ありがとうございます!これが主において喜ぶということなのです。パウロが苦難の中でも喜ぶことができたのは、私のために命をささげ、愛してくださったイエスさまが一緒におられる。それがパウロの喜びだったからです。あなたがたは主において喜びなさい。それはあなたがたも私たちが喜びとしているこの喜び、イエス・キリストを知ることの喜びをあなたがたの喜びとしてほしい、という願いの言葉なのです。そして、その喜びはあなたがたの人生を、あなたがた自身を守る、と言っているのです。

(むすび)
 9節に「キリストの内にいる者と認められるため」という言葉がありました。キリストの内にいる者。私たちはイエスさまというと、こんなふうに考えているかもしれません。私の心の中にイエスさまがおられる。でも、イエスさまを信じていると言いながら、世の様々な出来事が起こってくると、イエスさまを心の隅に置いてしまう。何とか、イエスさまを私の心の中心に置くことができるように。そうやって、日々、反省して過ごしているかもしれません。でも、この言葉はそれとは反対です。私たちはイエスさまの内にいる者とされているというのです。私はイエスさまのことを心の隅に、いいえ、どこかに置き忘れているような毎日を過ごしているけれども、イエスさまの方は私のことをいつも大切にしてくださっている、いつも覚えていてくださっている、というのです。
もう一つ、同じく9節のこの言葉についてお話しして終わりたいと思いますが、「キリストの内にいる者と認められるため」、これが口語訳聖書では「キリストのうちに自分を見いだすようになるため」となっていました。私は青年時代、モラトリアム人間、自分探し、そういう話を聴いたものでした。自分探しの旅をしているうちに、青い鳥症候群になってしまった・・・、という話も聞きます。これは若いうちのことだけではありません。いつも何か心に満たされないもの、欠乏感がある・・・。今も私たちはそういうことで悩んだりしていないでしょうか?
キリストの内に自分を見出す。それは、私たちがキリストに出会うことによって、本当の自分を知ることができる、自分を見出すことができる、ということです。私たちは自分を人との比較の中で知るというのではない。自分はあれができた、これを持っている。そのことで自分の価値をはかるのでもない。私とはいったい何者か。神さまに造られた私であり、神さまに愛されている私である。このことをいつも覚えて、イエスさまという方に出会い、聖書の言葉を通して、この方と向き合って、語り合いながら、祈りながら生きるのです。主において喜びながら歩みましょう。

祈り
恵み深い主なる神さま
 新しい週の初めに教会に集い、あなたを礼拝しています。私は何者であるのか。今日の聖書の言葉には「キリストの内にいる者」とありました。イエス・キリストの内に私がいるとありました。私は神さまのもの、神さまの子ども、神さまの家族とされたことを感謝します。
 使徒パウロはフィリピの教会に繰り返し語ります。「主において喜びなさい」と。私たちは主において喜ぶ、主にある者とされたことを喜ぶ者としてください。その喜びは私たちを守るともパウロは言います。どうぞ、主よ、私たちをお守りください。
私たちの救い主イエス・キリストのみ名によってお祈りします。 アーメン

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