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【クリスマス・イヴ礼拝】2020年12月24日 「別の道を通って歩もう」

2020年12月24日 クリスマス・イヴ礼拝説教「別の道を通って歩もう」マタイによる福音書2章1~12節

聖書―マタイによる福音書2章1~12節
(はじめに)
クリスマスおめでとうございます。今年は新型コロナのこともあり、静かなクリスマスとなりました。クリスマスの時に歌われます賛美歌「きよしこの夜」、英語ではサイレント・ナイトですが、まさにサイレント・ナイトのクリスマスとなりました。ある方がおっしゃっていたことですが、教会のクリスマス案内をしていましたら、「教会でもクリスマスをするのですか?」と言われた、ということです。笑い話のような話ですが、それほど、クリスマスは世界中に普及しています。宗教も、政治も、国も超えて普及しています。けれども、クリスマスそのものの意味はどこかにいってしまっているように思えます。そういうわけで、私たちはこの静かな夜、聖書からクリスマスとは何だろうか?そのことを聴いていきたいと思います。

(聖書から)
クリスマスについては、二つの福音書、マタイによる福音書とルカによる福音書に書かれているクリスマスの物語がよく知られています。マタイによる福音書では、東方の国から来た博士たち、最近の聖書の訳では占星術の学者たちとなっていますが、この人たちがお生まれになったイエスさまに会うという内容です。ルカによる福音書では、夜通し羊の群れの番をしていた羊飼いたちがお生まれになったイエスさまに会うという内容です。どちらの聖書の箇所を見ても、この人たちがいきなり、イエスさまに会った、というわけではありませんでした。何かを通して、何かがきっかけでイエスさまに会うことができました。占星術の学者たちは星を通して、羊飼いたちは主の天使を通して、イエスさまに会うことができました。
今日は占星術の学者たちがイエスさまに会った、その聖書の箇所から聴いていきたいと思います。聖書の言葉を読んでみましょう(マタイ2章1、2節)。
2:1 イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。そのとき、占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て、2:2 言った。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」
イエスさまはユダヤのベツレヘムでお生まれになりました。それではイエスさまとは何者なのか?そのことが今お読みしました聖書の言葉から分かります。東の方から来た占星術の学者たちがこう言っています。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです」。
イエスさまとは何者か?イエスさまとは、ユダヤ人の王としてお生まれになった方であると占星術の学者たちは言っています。ここで不思議なことは、占星術の学者たちというのは、おそらくユダヤ人ではありません。東の方の国の人たちです。ユダヤ人からすると、外国人でした。その人たちがユダヤ人の王としてお生まれになった方を探しにやって来たのです。それも探してどうするのかというと、拝みに来た、と言っています。拝むというのは、礼拝するということです。
これとは対照的な人たちがいました。その人たちのことを聖書はこのように書いています(マタイ2章3節)。
2:3 これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった。
ユダヤ人の王としてお生まれになった方、そのことを聞いて、当時、ユダヤの王、支配者であったヘロデ王は不安を抱きます。これは分かります。ヘロデ王は自分がユダヤの王なのに、それに取って代わる者が現れたのか?そう思うと不安になるはずです。でも、次にこういうことも書いてありました。「エルサレムの人々も皆、同様であった」。エルサレムの人々、ユダヤの人たちのことです。この人たちはなぜ、不安になったのでしょう。外国からやって来た占星術の学者たちがいったい何を言っているのだろう?と思ったのでしょうか。
ヘロデ王はこのことを確かめるために、ユダヤの祭司長たち、律法学者たちを集めて、ユダヤ人の王について尋ねます。聖書にはその時のことがこのように書かれています。
2:4 王は民の祭司長たちや律法学者たちを皆集めて、メシアはどこに生まれることになっているのかと問いただした。
ここには「ユダヤ人の王」とは書いていません。「メシア」と書いています。「メシア」というのは、ユダヤ人の使うヘブライ語で救い主という意味です。ギリシア語では「キリスト」と言います。イエス・キリストというと、イエスが名前でキリストが苗字と考えるかもしれませんが、そうではありません。キリストというのは、救い主という意味であり、称号です。ですから、イエス・キリストとは、イエスさまは救い主です、ということです。
祭司長たちや律法学者たちはヘロデ王の質問にどう答えたのでしょうか?「私たちは占星術の学者たちが言っていることを本当だと思います。いや間違いだと思います」。そんなふうに答えたのでしょうか?いいえ、彼らは自分たちがどう考えるかということではなく、聖書の言葉から答えたのです(マタイ2章6節)。
2:6 『ユダの地、ベツレヘムよ、/お前はユダの指導者たちの中で/決していちばん小さいものではない。お前から指導者が現れ、/わたしの民イスラエルの牧者となるからである。』」
彼らは聖書のミカ書5章1節というところから、答えました。すると、どういうことが分かったかというと、ユダヤ人の王、メシアがお生まれになることを神さまは預言者ミカに伝えていたということです。預言ミカは紀元前8世紀頃の人ですから、ユダヤ人の王、メシアがお生まれになることは八百年ほど前には伝えられていたのです。
ヘロデ王という人は、聖書が示す神さまを信じる人ではありませんでしたから、聖書の言葉を聞いただけでは信じられませんでした。それで今度は占星術の学者たちを呼び寄せて、彼らから救い主のことを聞いています(マタイ2章7、8節)。
2:7 そこで、ヘロデは占星術の学者たちをひそかに呼び寄せ、星の現れた時期を確かめた。2:8 そして、「行って、その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。わたしも行って拝もう」と言ってベツレヘムへ送り出した。
占星術の学者たちというのは、今で言うと、天文学者であるとか、星占い師とも言われます。星の研究家です。彼らは星に導かれて、ユダヤまでやって来ました。ヘロデ王は星のことに詳しい彼らに星は救い主のことをどう示しているか?と尋ねたのです。すると、聖書が示しているのと同じく、星もベツレヘムで救い主がお生まれになることを示していることが分かったのです。
この後、占星術の学者たちがイエスさまに会う場面が書いてありますのでお読みします(マタイ2章9~11節)。
2:9 彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。2:10 学者たちはその星を見て喜びにあふれた。2:11 家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。
お読みしましたように、このマタイによる福音書の中でイエスさまに会うことができたのは、占星術の学者たちだけでした。ヘロデ王もエルサレムの人々も、そして、祭司長たちも律法学者たちも、イエスさまに会うことができませんでした。どうして、占星術の学者たちだけがイエスさまに会うことができたのでしょうか。その理由についてお話しましょう。一つの理由は、救い主を求めた、ということです。遠い東の国から、救い主を求めてやって来たのです。求める人にイエスさまは出会ってくださるのです。もう一つの理由、それは、占星術の学者たちは「宝の箱を開け」た、とありました。大切なものが入っている箱を開けた。これは神さまに心を開くということです。求め、心を開く人にイエスさまは出会ってくださるのです。
(むすび)
占星術の学者たちは自分たちの国に帰ります。そのことがこのように書いてあります。
2:12 ところが、「ヘロデのところへ帰るな」と夢でお告げがあったので、別の道を通って自分たちの国へ帰って行った。
「夢でお告げがあった」というのは、おそらく、神さまからの語りかけのことだと思います。彼らはヘロデのところへ帰らないように、と言われます。「ヘロデのところへ帰るな」というと、聖書の言葉は間違っているのかな?と思われた方があるかもしれません。正しくはヘロデのところへ戻るな、とか、行くな、というはずです。でも、なぜ、帰るな、となっているのでしょうか?ヒントはもう一つの聖書の言葉、「別の道を通って自分たちの国へ帰って行った」ということです。ヘロデのところというのは、神さまを知らず、自分のことだけを求めて生きる道、生き方ということです。そこへもう帰ってはならない、ということです。そして、別の道というのは、あなたがたは救い主に出会った。これからは神さまを信じて、自分のことだけでなく、神さまと隣人を愛する道を、生き方を歩みなさい、ということです。
クリスマスとは何でしょうか?「彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた」とありました。占星術の学者たちは救い主に会い、救い主を礼拝し、大切なもの、自分自身をささげました。クリスマスという言葉はキリストを礼拝するという意味です。神さまは今から二千年前にご自分の大切な子供であるイエスさまをこの世にお送りくださいました。そして、イエスさまがこの世に、私たちにお示しになったことは何かというと、愛ということです。神さまを愛し、互いに愛し合うことをお示しになりました。聖書が示す罪とは、自己中心、自分のことだけしか愛さない、考えないということです。その罪から私たちを救うためにイエスさまはおいでになったのです。救い主イエスさまを心にお受けしましょう。最後に一箇所、聖書の言葉をお読みして終わります(一ヨハネ4章9、10節)。
4:9 神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。4:10 わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。

祈り
恵み深い主なる神さま
クリスマス・イヴの時、私たちは救い主としておいでくださったイエスさまを礼拝しています。クリスマスとは、文字通り、キリストを礼拝することです。クリスマスの意味を知らないまま、楽しいひとときを過ごすことがクリスマスだと考えている人は多いかもしれません。しかし、クリスマスは12月のこの時だけではありません。私たちが神さまに愛されていることを知り、その神さまを愛するように、互いが愛し合うことができるように、とイエスさまはおいでくださいました。イエスさまを受け入れたとき、その人のもとに本当のクリスマスがやって来ます。
私たちを愛から遠ざけてしまうのは罪というものです。罪とは、自己中心、自分さえよければ良いという生き方です。イエスさまはその罪から私たちを救い出し、愛する者にしてくださいます。そのためにイエスさまは十字架にかかり、私たちのすべての罪をご自分が引き受けて、犠牲となってくださいました。イエスさまは復活され、今、私たちと一緒に歩んでくださいます。私たちが愛に生きるように導いてくださいます。
占星術の学者たちが宝の箱を開けたように、私たちもいつもイエスさまに対して、心を開いて生きていくことができますように。救い主のイエスさまをお伝えしていくことができますように。そして、イエスさまをお迎えし、本当のクリスマスを体験する人たちがありますように。
私たちの救い主イエス・キリストのみ名によってお祈りします。 アーメン

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