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【礼拝説教】2022年5月1日「天の国は近づいた」

2022年5月1日(日)(朝・夕)赤塚教会礼拝説教「天の国は近づいた」マタイによる福音書3章1~12節

聖書―マタイによる福音書3章1~12節
(はじめに)
 大型連休の真っ只中にあります。皆さんはどのようにお過ごしでしょうか。ところで、今日は日曜日です。一般的にいうと、この日は休みの日ですが、私たちはこの日に神さまを礼拝します。聖書を見てみますと、旧約聖書では、日曜日ではなく、土曜日を安息日として、神さまを礼拝しました。レビ記23章3節にこのようなことが書いてあります。「六日の間仕事をする。七日目は最も厳かな安息日であり、聖なる集会の日である。あなたたちはいかなる仕事もしてはならない。どこに住もうとも、これは主のための安息日である」。「聖なる集会」とありました。これが礼拝のことです。今、キリスト教会が日曜日に神さまを礼拝するのは、イエスさまの復活があったからです。イエスさまが日曜日に復活されたことを記念して、私たちは毎週、日曜日に聖なる集会、神さまを礼拝します。

(聖書から)
お読みしました聖書箇所は、マタイによる福音書3章の初めのところです。この箇所には、洗礼者ヨハネ、あるいは原語の言葉そのままに言うと、沈める、浸す、という意味のバプテスマ、バプテスマのヨハネのことが書かれています。バプテスマのヨハネというのが名前ではありません。ヨハネが名前ですが、「バプテスマの~」というのはあだ名です。このヨハネは人々に悔い改めのバプテスマを宣べ伝えたので、そう呼ばれるようになりました。
2節をお読みします。
3:1 そのころ、洗礼者(バプテスマの)ヨハネが現れて、ユダヤの荒れ野で宣べ伝え、3:2 「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言った。
 これがバプテスマのヨハネの宣べ伝えたことです。「悔い改めよ。天の国は近づいた」。「天の国」というのは、別の聖書の訳では「天国」、「天の御国」、「天の王国」というふうにも訳されます。天国というと、人間が死んだ後に行く場所のように考えるかもしれません。しかし、ヨハネが言っているように、聖書では、「天の国は近づいた」、天の国が私たちのところに近づいてくる、というのです。不思議に思えるかもしれません。その意味は後でお話しします。
4節には、バプテスマのヨハネとは、どういう人なのか、説明があります。
3:3 これは預言者イザヤによってこう言われている人である。「荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、/その道筋をまっすぐにせよ。』」3:4 ヨハネは、らくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べ物としていた。
 ヨハネのことを「預言者イザヤによってこう言われている人」とありました。預言者イザヤ、旧約聖書のイザヤ書を書いた人です。このイザヤ書の中に、ヨハネのことが書いてあるというのです。次に書いてあることは、旧約聖書の引用です。「荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、/その道筋をまっすぐにせよ』」。
 私たちの教会で使っている新共同訳聖書では、聖書の後ろの方に付録として、「新約聖書における旧約聖書からの引用箇所一覧表」というものがあります。それをご覧いただきますと、このマタイによる福音書3章3節について、「イザ40:3LXX」とあります。イザヤ書40章3節とあり、その横にローマ数字で70とあります。旧約聖書のイザヤ書の引用ということを意味していますが、このローマ数字の70というのは、何かというと、旧約聖書はヘブライ語なのですが、これをギリシア語に訳したもので旧約聖書の七十人訳(ラテン語読みでセプチュアギンタ)と言われる聖書があります。そこからの引用ということです。このイザヤ書に書かれていたことが、実現している。ここに書いてあった人がバプテスマのヨハネであると言っているのです。
 バプテスマのヨハネのメッセージを聞いて、ぞくぞくと人々がやって来て、ヨハネからバプテスマを受けたことが次の言葉から分かります。
3:5 そこで、エルサレムとユダヤ全土から、また、ヨルダン川沿いの地方一帯から、人々がヨハネのもとに来て、3:6 罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼(バプテスマ)を受けた。
 私たちの教会では、昨年のクリスマスの時に、一人の方がイエスさまは私の救い主です、と信仰を告白して、バプテスマを受けられました。これは教会にとって大きな喜びです。このバプテスマですが、元々は、ユダヤにおいては、ユダヤ人ではない人がユダヤ教を信じる時に行われたそうです。ユダヤ教に改宗する時、バプテスマを受けました。改宗者のための儀式と言ったらよいかと思います。
 一方、元々、ユダヤ教を信じているユダヤ人はどうか?というと、バプテスマを受ける必要はない、ということで受けませんでした。ずっと先祖から、信仰が受け継がれてきたので、生まれながらのユダヤ教徒、聖書が示す真の神さまを信じる者だったから、その必要はないと考えていました。ところが、この後、不思議なことが書かれています。
3:7 ヨハネは、ファリサイ派やサドカイ派の人々が大勢、洗礼(バプテスマ)を受けに来たのを見て、こう言った。
 ヨハネが語る言葉の直前のところまでお読みしました。ここには、ファリサイ派の人々、サドカイ派の人々が大勢、バプテスマを受けに来たことが書いてあります。これは不思議なことです。なぜなら、ファリサイ派の人々、サドカイ派の人々というのは、信仰に熱心なユダヤ人だったからです。私たちは生まれながらのユダヤ人、先祖代々、信仰を引き継いできた。だから、バプテスマなど受ける必要はない。そう思っているはずの人たちが大勢、ヨハネのもとにバプテスマを受けに来た、というのです。私は、この人たちというのは、とてもへりくだった心を持った人たちだったのではないかと思います。自分は信仰のことはもう十分分かっている。そんなことは思わないで、バプテスマのヨハネのメッセージを聞いて、心を打たれ、もっと本気で神さまを信じてみよう、神さまに従って行こう。そう思ってやってきたのではないかと思うのです。
 けれども、彼らに向けられたヨハネのメッセージはとても厳しいものでした。ヨハネはこんなことを言っています。「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べ」(7、8節)。ヨハネは彼らのことを「蝮の子らよ」と言っています。新しく出た聖書協会共同訳では、ここが「毒蛇の子らよ」となっています。聖書が日本語で訳された時、日本で毒蛇というと、蝮のことを考えたのかもしれません。それで伝統的に蝮と訳されてきました。でも、イスラエルの地域には蝮はいないので、今回、新しい翻訳では毒蛇と訳されました。
 蝮の子、毒蛇の子、どういう意味でしょうか?私たちが蛇で連想するのは、創世記3章に出てくる蛇ではないでしょうか。蛇がエバを唆した。罪に誘った。動物園などに行って、蛇を悪魔だ、罪だ、と考えなくてもよいですが、聖書では、蛇は罪の象徴のように扱われています。すると、蝮の子、毒蛇の子というのは、罪の子という意味です。あなたがたは罪人なのだ、とヨハネは言っているのです。そして、「悔い改めにふさわしい実を結べ」。悔い改めというのは、ただ神さまの前に私は罪人です、と申し上げるだけではありません。ふさわしい実を結ぶように、つまり、生き方が問われているのです。
続いて、9節を読みます。「『我々の父はアブラハムだ』などと思ってもみるな。言っておくが、神はこんな石からでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる」(9節)。この「我々の父はアブラハム」、これがユダヤの人々の誇りでした。私たちの先祖は信仰の父と言われたアブラハムだ。私たちはその子孫だ。だから、私たちもその血筋であり、神さまの民にふさわしいのだ。しかし、その誇りを打ち砕くようなことをヨハネは言います。「神はこんな石からでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる」。あなたがたはアブラハムの子孫だ、ということを誇るが、神さまは、この石からもアブラハムの子たちを造り出すことができる。その誇り、その高ぶりを捨てなさい!と言うのです。

(むすび)
 バプテスマのヨハネのメッセージは真剣な悔い改め、本気で神さまに従うことを示すものでした。さらにヨハネは言います。
3:10 斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。3:11 わたしは、悔い改めに導くために、あなたたちに水で洗礼(バプテスマ)を授けているが、わたしの後から来る方は、わたしよりも優れておられる。わたしは、その履物をお脱がせする値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼(バプテスマ)をお授けになる。3:12 そして、手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる。」
ここには、ヨハネの後に来る方について語られています。バプテスマのヨハネは水でバプテスマを授けていました。しかし、その方は聖霊と火でバプテスマを授けられると言います。ここには、バプテスマのことを水のバプテスマと聖霊と火のバプテスマと言って、二つのバプテスマがあるような話をしているように思えます。水のバプテスマ、それはヨハネが「わたしは、悔い改めに導くために、あなたたちに水で洗礼(バプテスマ)を授けている」と言ったように、悔い改めに導くバプテスマです。では聖霊と火のバプテスマとは何でしょう。10節に「良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる」とあり、12節に「火で焼き払われる」とあります。神さまの目にふさわしくないなら、火で焼き払われてしまう、裁かれてしまう、ということでしょうか?そうだとすると、大変恐ろしいことです。
私たちは、受難週、イースターとイエスさまの十字架と復活の聖書の箇所を聞いてきました。イエスさまがなぜ、十字架におかかりになったのか?それは私たちのためにご自身が火に投げ込まれるためでした。私たちのためにご自身が火で焼かれるためでした。イエスさまは、私たちを罪から救うためにご自分がすべての罪を担い、裁きを受けてくださいました。最初にお話ししましたヨハネのメッセージ、「悔い改めよ、天の国は近づいた」とは、ヨハネが「わたしの後から来る方」と言った方、イエスさまが私たちのところにおいでになった、ということです。
「悔い改めにふさわしい実を結べ」ともヨハネは語りました。悔い改め、元々の言葉からの意味は、向きを変えよ、という意味です。イエスさまの方を向きなさい。イエスさまが私たちにしてくださった救いの恵みを見なさい。それが悔い改めです。イエスさまを見つめて生きる。そこから、私たちの新しい生き方が始まるのです。イエスさまを信じる、クリスチャンになる、というのは、そういうことです。新たにイエスさまを見つめて生きる人がありますようにお祈りいたします。

祈り
恵み深い主なる神さま
 今日も私たちは十字架と復活、イエスさまの救いのみわざをおぼえ、一緒に礼拝することができて感謝します。
 バプテスマのヨハネは悔い改めのバプテスマを宣べ伝えました。私たちは生まれながらの罪人であり、自分の方を向いて生きてしまう、自己中心の者ですが、悔い改めるように、向きを変えて生きるように、イエスさまの方へと方向転換をするように、と語りかけを受けました。
 「悔い改めにふさわしい実を結べ」と言われても、自分の力では、ふさわしい実を結ぶことのできない者ですが、主の愛と恵みを見つめ、主の愛と恵みを自分に与えられたことを信じて、新しく生きる者となりますように導いてください。
私たちの救い主イエス・キリストのみ名によってお祈りします。 アーメン

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