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【礼拝説教】2021年5月9日「主がお入り用なのです」

2021年 5月 9日(朝・夕)礼拝説教「主がお入り用なのです」マルコによる福音書11章1~11節

聖書―マルコによる福音書11章1~11節
(はじめに)
 イエスさまがエルサレムに入城された、という聖書の箇所を読みました。イエスさまは何のためにエルサレムに入城されたかというと、イエスさまはご自分の弟子たちに三度、その理由をお伝えになっていました。その箇所を読んでみます(10章33、34節)。
10:33 「今、わたしたちはエルサレムへ上って行く。人の子は祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して異邦人に引き渡す。10:34 異邦人は人の子を侮辱し、唾をかけ、鞭打ったうえで殺す。そして、人の子は三日の後に復活する。」
 イエスさまはご自分のことを「人の子」と言われました。イエスさまは救い主、神であるのに、人間としておいでになりました。そのイエスさまが殺され、三日目に復活される。十字架の死と復活が語られました。なぜ、イエスさまは十字架にかかって死なれたのか?それは私たちすべての人間の罪を担ってくださったからです。そして、三日目に復活された。復活というのは、イエスさまが罪と死に勝利された、ということを意味します。
 なかなかこのことは今を生きる私たちには理解できないことです。二千年前のどこかの国で起こった出来事が今の私たちと関係あるのだろうか?と思うのは当然のことだと思います。おそらく、イエスさまの弟子たちもイエスさまの十字架と復活の話を三度、聞いていても、私たちと同じように、理解できなかったと思います。

(聖書から)
 さて、今日の聖書の箇所を見ていきましょう。イエスさまがいよいよエルサレムに入城される場面です。その直前のことです。イエスさまはご自分の弟子にこのようなことを言われました(1~3節)。
11:1 一行がエルサレムに近づいて、オリーブ山のふもとにあるベトファゲとベタニアにさしかかったとき、イエスは二人の弟子を使いに出そうとして、11:2 言われた。「向こうの村へ行きなさい。村に入るとすぐ、まだだれも乗ったことのない子ろばのつないであるのが見つかる。それをほどいて、連れて来なさい。11:3 もし、だれかが、『なぜ、そんなことをするのか』と言ったら、『主がお入り用なのです。すぐここにお返しになります』と言いなさい。」
 二人の弟子に言った言葉が書かれています。「向こうの村」とはどこでしょう。ここに書かれているベトファゲであるとか、ベタニアであると言われますが、はっきりしたことは分かりません。その村に入ると、そこではすぐに誰も乗ったことのない子ろばのつないであるのが見つかる、と言われました。それをほどいて連れて来るように、というのです。子ろばがつないであるというのですから、誰かが所有している子ろばなのでしょう。それを連れて来るように、というと、その子ろばの所有者から、「なぜ、そんなことをするのか」と言われて当然です。そうしたら、イエスさまはその人にこう言いなさい、と言われました。「主がお入り用なのです。すぐここにお返しになります」。
 イエスさまが二人の弟子をお遣わしになり、なさりたかったことは、子ろばを連れて来なさい、ということでした。その子ろばをイエスさまがお使いになるということです。弟子たちはなぜ、そのように言われたのだろうか?と思ったことでしょう。イエスさまの弟子、それはイエスさまの言われたことに従う人です。私たちは自分が納得することには従うのではないでしょうか?でも、納得できない、理解できない、そういうことには従いません。そういうあり方は決して間違ってはいないと思います。自分でこれは正しいことだろうか?これは良いことだろうか?そのことをよく考えて判断するということは大切なことです。しかし、イエスさまの言葉に対してはどうでしょうか?イエスさまが言われても、それは納得できない、理解できない。だから、従わなくてもよい・・・。
 二人の弟子たちはイエスさまの言葉を聞いて、どうしたでしょうか?4節を見てみますと、このようなことが書かれています。
11:4 二人は、出かけて行くと、表通りの戸口に子ろばのつないであるのを見つけたので、それをほどいた。
 二人の弟子たちはイエスさまの言われたとおり、出かけて行きました。そして、子ろばのつないであるのを見つけると、それをほどいた、ということです。イエスさまが何をなさりたいのか、分からないまま、彼らはイエスさまの言われたとおりのことをした、というのです。分からないまま、イエスさまの言われたとおりのことをした。私はこの時の弟子たちの姿を読み、旧約聖書のアブラハムのことを思い起こしました。アブラハムについて、ヘブライ人への手紙11章8節にも書かれていますので、読んでみます。
11:8 信仰によって、アブラハムは、自分が財産として受け継ぐことになる土地に出て行くように召し出されると、これに服従し、行き先も知らずに出発したのです。
 アブラハムは神さまから今いる土地から出て、神さまの示す土地へ行きなさい、と言われ、どうしたかというと、このように書いてあります。「これに服従し、行き先も知らずに出発した」。行き先も知らないで出発した、というのです。よくそんな決断ができたと思います。これは神さまを信頼しているからできたことでしょう。神さまが言われることだから、まだよく分からないけれど、言われた言葉に従ってみようとアブラハムは出発したのではないでしょうか。
 イエスさまの弟子たちも、自分たちには分からないことだから、理解できないことだから、従いません、というのではなく、イエスさまが言われることだから、従ってみようと、彼らはイエスさまの言われたとおり、子ろばを調達して来ました。イエスさまはその子ろばをどうされたでしょうか。7節を読んでみます。
11:7 二人が子ろばを連れてイエスのところに戻って来て、その上に自分の服をかけると、イエスはそれにお乗りになった。
 二人の弟子は子ろばをイエスさまのところに連れて来ました。そして、子ろばの上に自分の服をかけました。彼らはイエスさまが「主がお入り用なのです」と言われたことをおぼえていて、イエスさまがお使いになると思い、そうしたのでしょう。イエスさまは子ろばにお乗りになりました。このようにして、イエスさまのエルサレム入城となります。その様子が書かれています。
11:8 多くの人が自分の服を道に敷き、また、ほかの人々は野原から葉の付いた枝を切って来て道に敷いた。11:9 そして、前を行く者も後に従う者も叫んだ。
「ホサナ。主の名によって来られる方に、/祝福があるように。
11:10 我らの父ダビデの来るべき国に、/祝福があるように。いと高きところにホサナ。」
 「多くの人」というのは、エルサレムの人々のことです。彼らは自分の服を道に敷いて、また他の人々は野原から葉の付いた枝を切って来て道に敷いた、ということです。先ほど、弟子たちが子ろばの上に自分の服を掛けたこと、そして、エルサレムの人々が自分の服を道に敷いたこと、野原から葉の付いた枝を切って来て道に敷いたこと、これらの意味はイエスさまを王と認め、迎え入れたということです。人々のイエスさまを歓迎する言葉が書かれています。「ホサナ」。これは「主よ、救ってください」という意味です。イエスさまを自分たちの王、救い主として迎え、救いを待ち望んだのです。
 イエスさまを自分たちの王として迎える。自分たちの救い主として迎える。これは素晴らしいことです。私たちもイエスさまを神の子、救い主と信じているなら、エルサレムに入城されたイエスさまを歓迎した人々と同じと言えるでしょう。ところで、ここで一つ気になることがあります。それはイエスさまのエルサレム入城、王として、救い主として入城した場面ですが、正直なところ、あまり格好の良いものではなかったと思います。なぜなら、イエスさまはろば、それも子ろばに乗っているからです。先ほど、お読みしたように、その子ろばはまだ誰も乗せたことがないというのです。不慣れな様子で、右や左によろよろしながら、イエスさまをお乗せしたのではないかと想像します。しかし、イエスさまはこの子ろばについて、「主がお入り用なのです」と言われました。この子ろばこそは私が必要としているもの!そう言われたのです。小さな、弱々しい子ろば。まるで私たちのようですが、イエスさまは私たちにもこのように言っておられるのではないでしょうか。「主がお入り用なのです」。主は私たちを必要としてくださり、お用いくださるのです。

(むすび)
 イエスさまが子ろばにお乗りになって、エルサレムを入城された。このことについて、マタイによる福音書(マタイ21章5節)では、旧約聖書・ゼカリヤ書の預言が実現した(ゼカリヤ9章9節)と言われています。ろばというのは、戦争に使われるのに適した馬ではありません。むしろ、平和の象徴であると言われます。すると、イエスさまが子ろばに乗って来られた、というのは、勇ましい力強い王というのではなく、平和の王、平和の主ということです。エルサレムの人々、また弟子たちが期待した、思い描いていた王、救い主はそのような方ではありませんでした。私たちはどうでしょうか?イエスさまをどのような王として、救い主として考えているでしょうか?イエスさまを私たちの王、救い主として、私たちの人生にお迎えすることは大切なことですが、その王とは、救い主とはどういう方であるのか?そのことを日々、主ご自身に聴き、尋ねることが大切なことです。信仰とはイエスさまに従うことです。自分の理解できるところ、納得できるところに留まるのではなく、イエスさまの言われる言葉に従う。それが聖書が私たちに示す信仰です。主に従っていきましょう。

祈り
恵み深い主なる神さま
 イエスさまは子ろばに乗って、エルサレムに入城されました。人々は主を王として、救い主としてお迎えしましたが、それぞれ自分勝手な王、救い主を描いていました。私たちもイエスさまを信じている、従っていると言いながら、この人々と同じようなことになっていることはないでしょうか。
 信仰は聞くことから、イエスさまの言葉を聞くことから始まります(ローマ10章17節)。イエスさまの言葉によって、私たちの心が砕かれ、新たにされ、イエスさまという王、救い主がどのような方であるかを知り、その言葉に従っていく者としてください。
私たちの救い主イエス・キリストのみ名によってお祈りします。 アーメン

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