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【礼拝説教】2021年1月10日「キリストの味方」

2021年 1月10日(朝・夕)礼拝説教「キリストの味方」マルコによる福音書9章38~41節

聖書―マルコによる福音書9章38~41節
(はじめに)
今日お読みしました聖書の箇所には、「わたしたちの味方」(40節)ということが言われていました。これはイエスさまが言われた言葉ですから、イエスさまとイエスさまの弟子たちの味方ということです。ところで、私たちは他人(ひと)を敵であるとか、味方であるというふうにして、区別してしまうことがあるのではないでしょうか。自分と同じ考えの人は味方、そうでない人は敵、自分に良くしてくれた人は味方、自分に対して批判をした人は敵と考えてしまう。ところが聖書はこのように私たちに語ります(マタイ5章43~45節)。
5:43 「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。5:44 しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。5:45 あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。
これはイエスさまが山上の説教と言われる聖書の箇所で語られた言葉です。この「隣人を愛し、敵を憎め」という言葉ですが、新共同訳聖書の後ろには付録として旧約聖書からの引用箇所の一覧表があります。それを見ると、旧約聖書・レビ記19章18節からの引用であることが分かります。その箇所を読みますと、「隣人を愛する」ということは書かれていますが、「敵を憎め」ということは書いていないのです。つまり、聖書には「敵を憎め」という教えはないのです。イエスさまはこれに続いて、敵を愛し、自分を迫害する者のために祈るように、と言われました。イエスさまは「敵を憎め」ではなく、「敵を愛する」ように、と言われたのです。

(聖書から)
今日の聖書の箇所では、イエスさまの弟子の一人ヨハネがイエスさまにこのようなことを言っています。「先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、わたしたちに従わないので、やめさせようとしました」(38節)。ヨハネがイエスさまに言ったこと、それはイエスさまの名前を使って悪霊を追い出している者がいるということです。その人は私たちに従わないので、あなたの名前を使って悪霊を追い出すことをやめさせようとしました、ということです。
イエスさまの名前を使って悪霊を追い出したという人、いったいどういう人だったのでしょうか?はっきりとしたことは分かりませんが、ヨハネはその人のことを私たちに従わない人であった、と言っています。想像ですが、ヨハネはその人に「あなたはイエスさまの名前を使って悪霊を追い出すことをしているが、私たちこそ、イエスさまの正真正銘の弟子なのだ。イエスさまの名前を使うのなら、私たちに従いなさい。私たちと一緒にイエスさまの弟子になりなさい」とでも言ったのではないでしょうか。ところが、その人はそう言われても、従うことをしなかった。イエスさまの弟子になることを拒否した、ということでしょうか。
この話を聞いたイエスさまはどうされたのでしょうか。イエスさまが言われた言葉を読んでみます。「やめさせてはならない。わたしの名を使って奇跡を行い、そのすぐ後で、わたしの悪口は言えまい。わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである」(39、40節)。イエスさまはご自分の名前を勝手に使ってけしからん!と言われたのでしょうか。いいえ、イエスさまは、その人のしていることをやめさせてはならない、と言われました。そして、その理由をお話しされました。
「わたしの名を使って奇跡を行い、そのすぐ後で、わたしの悪口は言えまい。わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである」。イエスさまの名前を使って奇跡を行ったら、そのすぐ後でイエスさまの悪口は言えないだろう、というのです。イエスさまは悪霊を追い出す力のある方、奇跡を行う力のある方。イエスさまのことを何か期待しているとか、尊敬しているとか、だから、イエスさまの名前を使ったのでしょう。
イエスさまの名前を使って、というと、私たちの教会もキリスト教会と名乗っています。赤塚バプテスト教会というのは、どんな宗教、どんな教会ですか?と尋ねられたら、イエス・キリストを信じている群れ、イエス・キリストの教会です、と私たちは答えるはずです。キリスト教会にはいろいろな教派、教会があります。他の教派、教会のことを知ると、私たちの教会と同じ信仰、イエス・キリストを救い主と信じる信仰ですが、小さなところ、細かいところでは違いがあります。そうすると、私たちの教会と比べて、どちらの教会が正しいのだろうか、と考えることがあるかもしれません。
これは教会の間の話だけではありません。私たちはお互いを比べて、自分の方がイエスさまの弟子として正しい、ふさわしい・・・。そういうことを考えることがあるかもしれません。先週お読みしました聖書の中にも、イエスさまの弟子たちの間で誰が一番偉いか、という議論があったということが書いてありました(34節)。けれども、いくら私たちが、私の教会が、私が、と議論したところで分かるものではありません。なぜなら、正しいとか、ふさわしいとか、それを決めるのは私たちではないからです。イエスさまがお決めになることです。
私たちは自分の判断ではなく、聖書から、イエスさまがどう言っておられるかを聴いていくのです。聖書を私たちは正典として読みます。正典というのは、私たちの信仰の基準、生き方の基準ということです。聖書から、イエスさまの言われる言葉を基準にして聴いていくのです。40節にはこのようなことが書かれていました。「わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである」。
イエスさまがここで「わたしたち」と言われたのは、イエスさまとイエスさまの弟子たちのことです。先ほど、イエスさまの弟子のヨハネが「わたしたちに従わないので」と言った時の「わたしたち」というのも、ヨハネ自身はイエスさまを含めての私たちと思っていたかもしれませんが、イエスさまの目から見ると、そうではなかったと思います。ヨハネは私たちこそはイエスさまに忠実な弟子であると自負していたかもしれません。でも、その「わたしたち」、そこにはイエスさまは入っていませんでした。というのは、イエスさま抜きで、イエスさまのお考えは無視していたからです。
使徒パウロはコリント教会に書き送った手紙の中で教会の中の分派騒動について触れています。その一部を読んでみますと、「あなたがたはめいめい、「わたしはパウロにつく」「わたしはアポロに」「わたしはケファに」「わたしはキリストに」などと言い合っているとのことです」(一コリント1章12節)とあります。パウロ派、アポロ派、ケファ(ペトロのことです)派、そして、キリスト派とありますが、もしかすると、私はキリストに、と言っている人たちは自分たちこそは他のどのグループよりも正しい!と言っていた人たちかもしれません。イエスさまの言葉、その心に聴くことをせず、自分勝手にそう言っていたのです。
今日の箇所に戻ります。イエスさまは、私たちに逆らわない者は私たちの味方と言われました。これはイエスさまの味方、イエスさまと弟子たちの味方ということです。ヨハネが、私たちに従わなかったから、私たちの敵と思っていた人のことをイエスさまは私たちの味方と言われたので驚いたことでしょう。イエスさまの味方。このことについて、さらにイエスさまはこのように言われました。
9:41 はっきり言っておく。キリストの弟子だという理由で、あなたがたに一杯の水を飲ませてくれる者は、必ずその報いを受ける。」
イエスさまが「はっきり言っておく」と言われたこと、それはイエスさまが最も伝えたかったことという意味です。「キリストの弟子だという理由で、あなたがたに一杯の水を飲ませてくれる者は、必ずその報いを受ける」。あなたたちがキリストの弟子だという理由で、一杯の水を飲ませてくれる者は必ずその報いを受けるというのです。

(むすび)
一杯の水を飲ませてくれるというのは、どういう意味かというと、暑い夏にのどが渇いたとき、どうぞ、と水を飲ませてくれたらありがたい。その程度のことではありません。聖書の舞台のイスラエルは、私たちの住んでいる日本のように水が豊富ではなく、乾燥した地域ですから、水一杯がとても貴重なものです。ですから、水一杯というと、小さな親切ぐらいの意味ではなく、この地域においては命の水と言えるほどのものです。あなたがたがキリストの弟子だということで助けてくれた人に神さまは必ず報いを与えてくださるというのです。
皆さんも、皆さんの周りの人たちから多くの助けをいただいていると思います。特に身近な家族、友人などがそうでしょう。その人たちに助けられて、支えられて、今がある。そして、その人たちに神さまは必ず報いを与えてくださる。今日もこの礼拝に送り出してくれている家族、私たちが信仰を持って生きることを受け入れてくれている家族に感謝したいと思います。その人たちに神さまは報いを与えてくださる。その報いというのは具体的にはどのようなものか分かりません。もしかすると、私たちにその神さまの報いをお知らせする役目が与えられているのかもしれません。私たちの周りにいる人たちにも神さまの報い、イエスさまの愛と赦しが与えられていること、そのことをお受けになる方がありますように祈り、伝えていきましょう。

祈り
恵み深い主なる神さま
イエスさまは弟子のヨハネが批判する人のことも「私の味方」と言われました。私たちは自分が正しいとすぐに主張したくなる者です。他人を敵か味方かと区別したくなる者です。しかし、イエスさまは「あなたの敵を愛しなさい」と言われました。私たちにとってそれは難しいことですが、イエスさまを信じる前の私たちは神さまに敵対して生きていました。けれども、そういう私たちを愛し続け、赦し続けておられたイエスさまの愛を後になって知りました。どうか、その愛に生きる者にしてください。
あなたがキリストの弟子というだけで一杯の水を飲ませてくれる人には神さまは必ず報いを与えてくださるとありました。私たちにとってその人たちとは家族のことでしょうか、また私たちの知らない人たちかもしれません。その人たちにも神さまの愛が注がれていることをおぼえ、そのことをお知らせする者、その人たちの祝福を祈る者としてください。
私たちの救い主イエス・キリストのみ名によってお祈りします。 アーメン

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