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【礼拝説教】2021年5月16日「私たちの誉れ、喜び」

2021年 5月16日(朝・夕)礼拝説教「私たちの誉れ、喜び」テサロニケの信徒への手紙Ⅰ 2章17~20節

聖書―テサロニケの信徒への手紙一2章17~20節
(はじめに)
 お読みしましたテサロニケの信徒への手紙一はイエスさまの使徒パウロがテサロニケの教会に書き送った手紙です。この手紙を書いた時、パウロはコリントにいたと言われています。そして、いつの日か、テサロニケへ行って、その教会の人たちと会いたい、という思いを持っていました。私たちは昨年の春からコロナ渦にあり、感染予防のため、行動を自粛するような生活を長いこと過ごしています。旅行に行くこともできない。家族や友人のところを訪ねることもできない。何とか会うことはできないだろうかとずっと我慢しながら、辛抱しながらの日々ではないかと思います。まさにパウロがテサロニケの訪問を願ったことと重なります。

(聖書から)
 今日の聖書の箇所をお読みします。パウロのテサロニケの教会への思いが詰まった言葉が書かれています。
2:17 兄弟たち、わたしたちは、あなたがたからしばらく引き離されていたので、――顔を見ないというだけで、心が離れていたわけではないのですが――なおさら、あなたがたの顔を見たいと切に望みました。
 パウロはテサロニケの教会の人たちにこのように語っています。「あなたがたからしばらく引き離されていた・・・」。そして、それに続いて、「顔を見ないというだけで、心が離れていたわけではないのですが」とも言っています。これと同じようなことをパウロはコロサイの信徒への手紙2章5節で書いています。
2:5 わたしは体では離れていても、霊ではあなたがたと共にいて、あなたがたの正しい秩序と、キリストに対する固い信仰とを見て喜んでいます。
 顔と顔とを合わせることはできなくても、心では、あるいは霊では共にいるということが言われています。私は毎週水曜日の祈祷会で、そのことを体験しています。今、祈祷会はzoom(ズーム)というアプリを使うことによって、この会堂に集まっている人たち、そして、インターネットでつながっている人たちと一緒に行っています。場所は離れていても、同じ神さまを見上げ、神さまの言葉に聴き、神さまに祈りを合わせるということを行っています。パウロの場合はどうだったでしょうか?この時代はもちろん、インターネットなどありません。パソコンの画面で相手の顔を見ることもありませんでしたから、それこそ、見ないで信じる信仰(ヨハネ20章29節参照)によって、主にある兄弟姉妹と心で、霊で共にいるということを感じていたのでしょう。これに続いて、パウロがテサロニケへ訪問することができなかった理由が述べられています。
2:18 だから、そちらへ行こうと思いました。殊に、わたしパウロは一度ならず行こうとしたのですが、サタンによって妨げられました。
 テサロニケの教会の人たちと会うことができなかった。心では、霊では共にいる。そうは信じていても、彼らに会いたいという思いは強くなるばかりでした。だから、何とかして、そちらへ行こうと思った、と言うのですが、このように書かれています。「殊に、わたしパウロは一度ならず行こうとしたのですが、サタンによって妨げられました」。
 サタンによって妨げられた、と言っています。サタン、悪魔のことです。中傷する者、訴える者という意味があります。サタンの妨げ。それはどういうものだったのでしょうか?ここにはそのことについて、何も述べられていませんが、私たちがここから教えられることは、サタンの妨げというものがあるということです。パウロはテサロニケの教会へ行きたい、という願いを持っていました。それが何らかの事情でできなくなった。そのことをサタンの妨げと言っています。自分の願っていることがかなわなかった。そのことをサタンの妨げというのでしょうか?
 イエスさまがご自分の弟子たちと会話した場面から考えたいと思います。マタイによる福音書16章21~23節です。
16:21 このときから、イエスは、御自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている、と弟子たちに打ち明け始められた。16:22 すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。」16:23 イエスは振り向いてペトロに言われた。「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている。」
 イエスさまの一番弟子とも言えるペトロがイエスさまからサタン呼ばわりされているのは、衝撃的ですが、なぜ、イエスさまはペトロのことをサタンと言われたのか、あるいは、ペトロを惑わそうとするサタンという意味で言われたのか、分かりませんが、イエスさまはご自分が神さまの救いのご計画に従って、十字架にかかり、殺され、三日目に復活されることを予告されました。それを聞いたペトロはイエスさまを愛し、尊敬するあまりに、ということでしょうか、そんなことはあり得ない、そんなことがあってはならない、とイエスさまの言われたことを否定してしまったのでした。すると、イエスさまはペトロに対してこう言われたのです。「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている」。
 ここで注意したいのは、イエスさまはペトロのことを「私の邪魔をする者」と言っています。これはイエスさまが示された神さまの救いのご計画を否定したことに対して、そのように言われたのでしょう。さらにこのように言われました。「あなたは神さまのことを思わず、人間のことを思っている」。ペトロがイエスさまに対して言ったことは人間的に考えるならば、弟子としては素晴らしい言葉だったと思います。「自分の愛する、尊敬するイエスさまが捕らえられ、殺されてしまうなんて。そんなことがあっていいはずがない!」ペトロの気持ちはよく分かります。しかし、これが神さまの救いのご計画でした。救い主としておいでになったイエスさまはこれに従わなければなりませんでした。だから、イエスさまはペトロのご自分に対する愛の気持ちなど、すべてをご存じのうえで言われたのだと思います。「あなたの言ったこと、それは人間の思いに過ぎないことなのだ。私は神さまのご計画に従うのだ」と。
 今日の箇所に戻ります。サタンの妨げとは何か。このイエスさまとペトロの対話から考えますと、神さまの救いのご計画、神さまのみ心、それと反することと言えるのではないでしょうか?パウロはテサロニケへ行って、さらに福音宣教を進めていこうと願っていたことでしょう。しかし、そのことが妨げられてしまった。それがサタンの妨げ。私たちは今日のような箇所を読むと、自分もサタンの妨げに遭わないように、神さま、お守りください、と祈らされると思います。けれども、それだけではなく、自分自身がサタンの妨げとなるようなことがないようにもお守りください、と祈る必要があるのではないでしょうか。
 私は教会の牧師という働きをしています。牧師の場合はどうでしょう?牧師は神さまに直接お仕えする仕事だから、牧師自身がサタンの妨げとなるようなことはないだろう?と思われる方があるかもしれませんが、牧師もまた一人の肉の(人間的な)弱さをおぼえる者です。イエスさまから、「サタンよ、引き下がれ!神さまのことよりも人間のことを思っている!」と言われることは度々あると思います。ですから、牧師である私自身も、神さまが託してくださった教会を神さまのみ心にかなった歩みへと導く働きができますように、と祈らされますし、皆さんも牧師が神さまのみ心に従って歩むことができるように、と祈っていただけたらさいわいです。

(むすび)
2:19 わたしたちの主イエスが来られるとき、その御前でいったいあなたがた以外のだれが、わたしたちの希望、喜び、そして誇るべき冠でしょうか。2:20 実に、あなたがたこそ、わたしたちの誉れであり、喜びなのです。
 イエスさまの再臨、イエスさまが再び来られ、救いの完成を行ってくださる時のことが言われています。パウロは「イエスさまが再び来られる時、主のみ前で、あなたがた以外の誰が私たちの希望、喜び、誇るべき冠でしょうか」と言っています。これは最高、最上の褒め言葉です。さらにこのようにも言います。「あなたがたこそ、私たちの誉れ、喜び」。これほどに褒められるテサロニケの教会の人々というのは、それほど素晴らしい人たちだったのでしょうか?私は思いますが、人間的に見るならば、いろいろと弱いところ、欠点はあったと思います。しかし、パウロは彼らのことを「私たちの誉れ、喜び」と言うのです。それはおべっかでも励ますためでもありません。ではなぜ、このようなことを言うのでしょうか?それはパウロ自身が神さまからそのように言われていたからです。パウロは神さまから、「あなたは私の誉れ、喜び」。そのように言われていると信じていたのです。そして、それはパウロだけではない。主を信じる一人一人も同じであるとパウロは言っているのです。
 神さまは私たちを喜びとしておられる。そのことが書かれている箇所を読んでみたいと思います。これはダビデが神さまに感謝をささげる歌の中の一節です(サムエル記下22章17~20節)。
22:17 主は高い天から御手を伸ばしてわたしをとらえ/大水の中から引き上げてくださる。
22:18 敵は力があり/わたしを憎む者は勝ち誇っているが/なお、主はわたしを救い出される。
22:19 彼らが攻め寄せる災いの日/主はわたしの支えとなり
22:20 わたしを広い所に導き出し、助けとなり/喜び迎えてくださる。
 「喜び迎えてくださる」とあります。別の訳では「喜びとしてくださる」(聖書協会共同訳)、「主が私を喜びとされた」(新改訳2017)となっています。私たちは自分が神さまから喜びとされていることをおぼえたいと思います。そして、私たちが出会う人たちにも、あなたは神さまから愛されている人です、神さまから喜びとされている人です、とお伝えしていきましょう。

祈り
恵み深い主なる神さま
 パウロはテサロニケの教会の人たちのことを「私たちの誉れ、喜び」と言いました。しかも、「イエスさまが再び来られる時、主のみ前においてそうなのだ」と言いました。そのように言ったのは、テサロニケの教会の人たちが特別に優れた人たちだったからでしょうか?いいえ、ただ神さまの恵みによって救われ、神さまの目に喜びとされた者であることをパウロは信じていたからそのように言えたのだと思います。
 あなたは私の誉れ、喜び。それは神さまのテサロニケの教会への言葉であり、パウロへの言葉です。そして、私たちにも向けられた言葉です。神さまの誉れ、喜びとされている私たちは神さまを喜び、神さまの救いに応えていく者としてください。
私たちの救い主イエス・キリストのみ名によってお祈りします。 アーメン

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