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【礼拝説教】2021年1月24日「わたしたちの本国は天にある」

聖書―フィリピの信徒への手紙3章17節~4章1節
(はじめに)
『キリストにならいて』という本があります。これはトマス・ア・ケンピスという中世のカトリックの司祭が書いたもので岩波文庫からも出版されています。その書名が示すように、イエス・キリストに倣う生き方について書かれたものです。倣うというと、習い事をする人にとっては大切なことです。書道、武道、華道、茶道など、皆さんもいろいろな習い事を経験されたことがあるのではないでしょうか。その場合、その道を教えてくださる方に倣います。見様見真似でその人の真似をするところから始めます。ある牧師先生は、キリスト教信仰も同じだ。キリスト教信仰とはキリスト道だと言われます。新約聖書・使徒言行録などを見てみますと、キリスト者、キリストを信じる者のことを「この道に従う者」(使徒9章2節)と書いてあります。イエスさまご自身も「わたしは道であり、真理であり、命である」(ヨハネ14章6節)と言われました。私たちはキリストに倣う、キリストを真似る者です。

(聖書から)
お読みしました聖書の箇所はフィリピの信徒への手紙3章17節からです。最初の17節に今、お話ししました「倣う」という言葉が出てきます。
3:17 兄弟たち、皆一緒にわたしに倣う者となりなさい。また、あなたがたと同じように、わたしたちを模範として歩んでいる人々に目を向けなさい。
この手紙を書いたキリストの使徒パウロはこのように呼びかけます。「兄弟たち、皆一緒にわたしに倣う者となりなさい」。フィリピの兄弟姉妹に向かって、このように言うのです。私に倣う者となりなさい。このパウロの言葉を読むと、パウロという人は傲慢な人なのだろうか。とても自分に自信のある人なのだろうか。そんなふうに考えるかもしれません。そして、私たちはパウロのようなことはとても言えないと思うのではないでしょうか。「皆さん、この私に倣ってください」と言うことができるような者でしょうか。むしろ、「私のことは見ないで、キリストを見てください」と言うのではないでしょうか。それでは、パウロが言った「わたしに倣う者となりなさい」。これをどう理解したらよいでしょうか。パウロは傲慢だったのでしょうか。自信があったのでしょうか。いいえ、そうではなかったと思います。パウロが自分のことについて書いている聖書の箇所を読んでみましょう。コリントの信徒への手紙一15章9、10節です。
15:9 わたしは、神の教会を迫害したのですから、使徒たちの中でもいちばん小さな者であり、使徒と呼ばれる値打ちのない者です。15:10 神の恵みによって今日のわたしがあるのです。そして、わたしに与えられた神の恵みは無駄にならず、わたしは他のすべての使徒よりずっと多く働きました。しかし、働いたのは、実はわたしではなく、わたしと共にある神の恵みなのです。
パウロはキリストを信じる前は熱心なユダヤ教徒であり、キリスト教会を迫害する者でした。そういう自分はキリストの使徒の中でも一番小さな者、使徒と呼ばれる値打ちのない者であると言っています。このように、パウロは傲慢でもなく、自分に自信があったわけでもありません。自分はキリストに出会う前はキリストを迫害するような者、罪深い、小さな者である、と言っています。
そういうパウロですが、このようなことも言っています。神さまの恵みによって今日の私がある。キリスト教会を、キリストを迫害していた私を神さまは見捨てず、裁かず、私を赦し、神さまの救いへと招き入れてくださった。そのことをパウロは神さまの恵みによって、と言っています。私は神さまに救われた。その恵みに感謝して、応えようとして、私は神さまの働きに励んできた。私が頑張って、私の力であれをした、これをした、というのではなく、すべて、神さまの恵みによることなのだ、というのです。
ここまで話してきて、パウロが私に倣う者となりなさい、と言った意味がお分かりになったと思います。パウロが私に倣う者となりなさい、と言ったのは、立派に生きている私に倣って、大きな働きをしている私に倣って、ということではありません。神さまの恵みによって生かされている私を見てください、あなたがたも神さまの恵みによって生かされて歩みなさい、ということだったのです。
もう一つ、私に倣う者ということについて、書かれている聖書箇所があります。テサロニケの信徒への手紙一1章6節です。ここには「わたしたちに倣う者、そして主に倣う者となり」とあります。この言葉から分かることは、パウロは主に倣う者とあるように、イエス・キリストに倣う、真似る、模範とすることに努めていた人であった、ということです。ですから、私に倣う者、私たちに倣う者とは、この私そのものに、私たちそのものに倣うということではなく、キリストに倣う者として歩んでいる、そのことにあなたがたも倣ってください、ということです。さて、ここで話が終わればよいのですが、この後の言葉を読んでみますと、私たち人間の現実はどういうものであるかを知らされます。それが18、19節に書かれていることです。
3:18 何度も言ってきたし、今また涙ながらに言いますが、キリストの十字架に敵対して歩んでいる者が多いのです。3:19 彼らの行き着くところは滅びです。彼らは腹を神とし、恥ずべきものを誇りとし、この世のことしか考えていません。
「キリストの十字架に敵対して歩んでいる者」とあります。それはどういう人であるかというと、19節に「彼らは腹を神とし、恥ずべきものを誇りとし、この世のことしか考えていません」とあります。腹を神とする、というのは、自分を神とするということです。ある方はこう言いました。自分は無神論であるという人がいる。けれども、それは本当には無神論ではない、というのです。なぜなら、そういう人は自分を神としているからだ、というのです。続いて、恥ずべきものを誇りとする、とあります。恥ずべきもの、神さまの目に恥ずべきもの、神さまの喜ばれないものを誇りとする、ということです。そして、この世のことしか考えていない。それはこの世が、この世のことがすべてと考えているということです。生きている間に好き勝手に生きたらいい。死んだらすべて終わりだからという刹那的な生き方です。これらのことに対して、パウロはこのように言います。
3:20 しかし、わたしたちの本国は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、わたしたちは待っています。
私たちの本国は天にある。口語訳聖書では「わたしたちの国籍は天にある」となっていました。天の国、神さまのみ国こそは私たちの本国、私たちの国籍のあるところ、私たちは天の国に市民権を持つ者というのです。市民権と言いましたが、私たちはこの世においては、東京の板橋、また練馬、埼玉など、その地に住む者としてふさわしく生きることが求められています。しかし、それだけでなく、私たちの本国、国籍は天にあるとありますように、神さまのみ国にある者としてふさわしく生きることが求められているのです。そのために私たちは聖書から天の国の住人としての生き方を学ぶのです。
20節後半に「そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、わたしたちは待っています」とありました。イエスさまが救い主として来られる。ここで言われているのは、再臨ということです。イエスさまが再び来られ、救いを完成してくださる。その日を待ち望んで、私たちは生きるというのです。その日、その時がいつなのかは私たちには分かりません。昨年、新型コロナウイルスの感染拡大が起こったとき、終末、世の終わりが近いのではないか、と考える人もいたようですが、大きな地震、疫病、戦争などがあると、私たちは気が滅入ってしまって、もう世も末か、終わりか、と考えてしまいがちです。しかし、終わりの日はいつなのかは分かりませんが、それはイエスさまがおいでになる希望の日でもあります。その日を待ち望んで、今、自分に与えられている働き、務めに励んでいきましょう。

(むすび)
今日お読みしました聖書箇所の21節には、私たちがキリストの栄光ある体と同じ形に変えられるということが書かれています。
3:21 キリストは、万物を支配下に置くことさえできる力によって、わたしたちの卑しい体を、御自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださるのです。
お読みした内容は、まだ起こっていない将来の出来事ですから、具体的にはどうなるか、こうなるか、と言うことはできません。しかし、これと共通の内容の聖書箇所がありますので、その箇所も読んでみます(一ヨハネ3章2節)。
3:2 愛する者たち、わたしたちは、今既に神の子ですが、自分がどのようになるかは、まだ示されていません。しかし、御子が現れるとき、御子に似た者となるということを知っています。なぜなら、そのとき御子をありのままに見るからです。
この言葉から励まされることは、私たちは今既に神の子とされているということです。私たちは神の子、神さまの大切な子供であるということです。この世においては、いろいろな苦しみがあります。しかし、私たちは神さまの大切な子供ですから、私たちを愛しておられる神さまを信頼して、生きていく、生き抜いていくのです。そういう私たちに与えられている将来の希望、それはイエスさまが再びおいでになるとき、私たちもイエスさまに似た者となるというのです。
4:1 だから、わたしが愛し、慕っている兄弟たち、わたしの喜びであり、冠である愛する人たち、このように主によってしっかりと立ちなさい。
今日の聖書箇所の最後の言葉を読みました。「だから」というのは、この希望があるから、ということです。この希望があるから、私たちは主によって立つことができる。主が私たちを立たせてくださる、生きていくようにしてくださるというのです。主を希望として歩んでまいりましょう。

祈り
恵み深い主なる神さま
新型コロナウイルスの感染拡大は収まりません。以前のような生活に戻るのはいつなのでしょうか?とあなたにお尋ねしながら、日々を歩んでいます。
私たちの本国は天にある、という言葉を聴きました。私たちが天の国の市民権を持つ者であることを知らされて感謝します。この世にあっては、様々な苦しみがあります。しかし、イエスさまはこう言われました。「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」(ヨハネ16章33節)。世に勝利された方であるイエスさまが共におられることをおぼえて、天の国、永遠の命の希望を持って生きる者としてください。
私たちの救い主イエス・キリストのみ名によってお祈りします。 アーメン

 

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