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【礼拝説教】2021年3月14日「神は何でもできる」

2021年 3月14日(朝・夕)礼拝説教「神は何でも出来る」マルコによる福音書10章17~34節

聖書―マルコによる福音書10章17~34節
(はじめに)
 3月も半ばとなりました。私たちはカレンダーや暦を見て、今がどんな季節であるか、どんな日であるかを知りますが、教会にも暦があります。教会の暦と書いて、教会暦(きょうかいれき)と言いますが、2月17日から受難節(レント)という時期になりました。受難というのは、イエス・キリストが十字架におかかりになることを意味します。イエス様の十字架の出来事をおぼえてこの後、受難週を迎えます。今年は受難週が3月28日からの一週間です。そして、4月4日の日曜日が、イエスさまが復活されたことを祝うイースターです。

(聖書から)
 お読みしました聖書の初めに書かれていたのがこのような言葉でした。「イエスが旅に出ようとされると」(17節)。これはイエスさまがエルサレムへ向かわれたことを意味しています。エルサレムへ向かうというのは、イエスさまが間もなく十字架におかかりになるということです。私たちはこの受難節の時期にあって、イエスさまがエルサレムへ向かわれたこと。それはイエスさまが十字架におかかりになるためであった。私たちを罪から救うためのことであったことを心におぼえたいと思います。
 そういうイエスさまの前に一人の人が現れます。17節の後半を読んでみますと、「ある人が走り寄って、ひざまずいて尋ねた。「善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか」」とあります。この人はイエスさまの前に走り寄ってきて、ひざまずいて尋ねた、ということです。走り寄る、ひざまずく、ということからは、この人は何か、必死な、真剣な思いで、イエスさまのもとにやって来たことが分かります。この人はイエスさまにこのような質問をしています。「善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか」。
 イエスさまのことを「善い先生」と呼んでいます。この人はイエスさまのことが誰であるかは知らなかったようです。しかし、噂などで聞いていたのでしょう。神さまのことを教える素晴らしいお方。そういう意味で呼びかけたのではないでしょうか。その質問は、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか、ということでした。永遠の命を受け継ぐには、というのは、救われるためには、とか、神の国(天の国)に入るためには、ということです。
 この質問に対して、イエスさまはこのようにお答えになりました。「なぜ、わたしを『善い』と言うのか。神おひとりのほかに、善い者はだれもいない。『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬え』という掟をあなたは知っているはずだ」(18、19節)。この人が聞きたかったこと、知りたかったこと、それは永遠の命を受け継ぐためにはどうしたらよいか、ということでした。それに対して、イエスさまは、神さまの掟、律法を示されます。あなたは神さまの掟を知っているはずだ。すると、この人はこう言いました。「先生、そういうことはみな、子供の時から守ってきました」(20節)。神さまの掟について、そういうことはみな、子供の時から守ってきました、と言っています。この人はイエスさまに対して、ただ言葉で返したというのでなく、本当に、自分は神さまの掟を子供の時から素直に聞き、守ってきました、と答えたのだと思います。
 この人の言葉をお聞きになったイエスさまは続いて、このように言われました。「イエスは彼を見つめ、慈しんで言われた。「あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい」」(21節)。イエスさまはこの人を見つめられた、とあります。見つめられた、どのような思いで見つめられたのでしょうか。また、イエスさまは慈しんで言われた、ともあります。慈しむ。日本語としては、慈しんで、という言い方はこれで良いのですが、直訳的には、愛して、と訳すことができる言葉です。つまり、イエスさまはこの人を愛の目で見られ、愛の心を持って臨まれ、語られた、ということです。その言葉が「あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい」ということでした。
 イエスさまがいきなり、あなたに欠けているものがある!と言われると、何かあら探しでもされて、欠点を厳しく指摘された、というふうに思えるのですが、そうではありません。イエスさまは愛を持って、この人に語られたのです。それでは、イエスさまが言われた、この人に欠けている一つのこととは何でしょうか。この人はイエスさまの言葉を聞いて、どうしたかというと、「この言葉に気を落とし、悲しみながら立ち去った。たくさんの財産を持っていたからである」(22節)とあります。すると、たくさんの財産を持っていたこと、それを捨てることができなかったことがこの人に欠けていたことなのでしょうか。
 この後、イエスさまは弟子たちを見回して、「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか」(23節)と言われました。さらに「子たちよ、神の国に入るのは、なんと難しいことか。金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」(24、25節)とも言われました。これを聞いた弟子たちは「それでは、だれが救われるのだろうか」(26節)と言ったところ、イエスさまはこう言われました。「人間にできることではないが、神にはできる。神は何でもできるからだ」(27節)。
 永遠の命を受け継ぐこと、神の国に入ること、これは人間にはできない、とイエスさまは言われました。そして、人間にはできないが、神さまにはできる、と言われました。先ほどの21節の言葉をもう一度、読んでみますと、「あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい」とありました。持っている物を売り払い、貧しい人々に施す、ということ。おそらく、この人はイエスさまに対して、真摯な態度で質問した人ですから、この言葉もやはり真剣に受け止めて、自分は子供の時から神さまの掟を一生懸命、守ってきたけれども、それでも、完全には守り得ない。そのことをイエスさまから指摘されたと思い、私は永遠の命を受け継ぐにはふさわしい者ではない、と自分に失望して、がっかりして、イエスさまのもとから去って行ったのではないかと思います。しかし、この人は、イエスさまが言われた最も大切なことは聞き落としてしまったのです。
 その最も大切なこととは何かというと、「わたしに従いなさい」ということです。私に従う、イエスさまに従うということです。この人は悲しみながら立ち去った、とありましたが、イエスさまのもとから立ち去ってはいけなかったのです。立ち去らずに、不完全なままで、弱さを抱えたままで、それでもイエスさまに従っていけばよかったのです。イエスさまに従っていくなら、「人間にできることではないが、神にはできる。神は何でもできるからだ」と言われたように、イエスさまが永遠の命へと導いてくださるのです。それなのに、この人は、私に従いなさい、というイエスさまの愛の招きを受け入れることなく、去ってしまったのです。
実はイエスさまの弟子もイエスさまの言われた大切なことを聞き落としていました。ペトロはイエスさまにこう言っています。「このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました」(28節)。ペトロは、あなたの弟子である私たちはイエスさまのもとを立ち去ったあの人とは違います。私たちは何もかも捨ててあなたに従って来ました!自信を持って、誇りを持って、言っているようです。このように、イエスさまのもとを立ち去った人も、イエスさまのそばにいて、一緒に歩んできた弟子たちも、イエスさまの言われたことを分かっていませんでした。 

(むすび)
 イエスさまが言われた「神は何でもできる」ということ、それは私たち人間を永遠の命へ、神の国へと導いてくださるのは神さまだけであることを示しています。しかし、それはある一つの方法によってのことでした。今日お読みしました最後の箇所をお読みします。「今、わたしたちはエルサレムへ上って行く。人の子は祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して異邦人に引き渡す。異邦人は人の子を侮辱し、唾をかけ、鞭打ったうえで殺す。そして、人の子は三日の後に復活する」(33、34節)。
ここで言われているのは、エルサレムでの出来事です。人の子とあるのは、イエスさまのことです。イエスさまは十字架におかかりになり、死なれます。しかし、三日の後に復活されます。これが「神は何でもできる」ということです。「神は何でもできる」。それは、神さまは私たちを救うために何でもなさるということです。神さまがなさったことは、神さまは私たちを救うために、その大切なみ子であるイエスさまをお遣わしになり、ご自分の命をささげてくださったということです。このことによって、私たちは永遠の命へと導かれたのです。私たちは、この十字架の愛をおぼえて感謝して歩みましょう。

祈り
恵み深い主なる神さま
 ある人がイエスさまに真面目に問いかけました。永遠の命を受け継ぐためにはどうしたらよいでしょうか、と。イエスさまはこの人に「私に従いなさい」と言われました。また、弟子たちにも「人間にはできないが、神さまにはできる」と言われました。
 永遠の命を受け継ぐこと、神の国に入ること、すなわち、救いは人間の力でできることではありません。神さまの力によることです。この会話の後、主はご自分が十字架におかかりになること、三日目に復活されることを語られました。
 神さまは何でもできるお方です。私たちを救うことができるお方です。神さまが私たちを救うためになさったこと、それが十字架と復活でした。ご自分の命をささげて、私たちに永遠の命を与えてくださいました。この救いのみわざを感謝します。
私たちの救い主イエス・キリストのみ名によってお祈りします。 アーメン

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