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【礼拝説教】2023年3月19日「信仰、希望、愛」

2023年3月19日(日)(朝・夕)赤塚教会礼拝説教「信仰、希望、愛」コリントの信徒への手紙Ⅰ13章1~13節

聖書―コリントの信徒への手紙一13章1~13節
(はじめに)
 お読みしました聖書の箇所は、コリントの信徒への手紙一13章、愛の章と言われる箇所です。この箇所に入る前に、12章31節には、このような言葉が語られています。
12:31 あなたがたは、もっと大きな賜物を受けるよう熱心に努めなさい。
12:31 そこで、わたしはあなたがたに最高の道を教えます。
 賜物というのは、神さまから与えられたものということです。コリントの教会の人たちは、それぞれ自分は神さまから、こういう賜物を与えられた、と言って、互いにそれを喜び合い、励まし合えばよかったのですが、そうではなくて、互いに自慢し合ったり、競い合ったりしたようです。そのようにして、せっかく神さまから与えられた賜物を台無しにしてしまったのです。神さまが賜物を与えた目的とは、違うことになってしまったのです。
 パウロは、そういうコリントの教会の現状を知り、彼らにアドバイスをしました。そして、コリントの教会に欠けていた大事なことを語ったのが、13章の言葉だったのです。

(聖書から)
 先ほどお読みしました12章31節には、「あなたがたは、もっと大きな賜物を受けるよう熱心に努めなさい」とありました。「もっと大きな賜物」とは何でしょうか?神さまはいろいろな賜物を私たちに与えてくださるけれど、どの賜物よりも大切で、しかも、誰にでも与えられている賜物、それが「もっと大きな賜物」です。いったい、どういう賜物なのか、この章の言葉から聞いていきましょう。
 13章1節からお読みします。
13:1 たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、わたしは騒がしいどら、やかましいシンバル。13:2 たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい。13:3 全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、わたしに何の益もない。
 お読みしました言葉の中に、繰り返し語られていることがあります。それは、「愛がなければ」ということです。どんな優れた能力、どんな優れた知識、どんな優れた働きがあっても、「愛がなければ」と言われています。ところで、ここでパウロは、「わたしは」という言葉を使っています。コリントの教会の人たちに対して語っていますから、「あなたがたは」という言葉が使われるはずです。例えば、「たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、わたしは騒がしいどら、やかましいシンバル」となっていますが、「あなたがたは騒がしいどら、やかましいシンバル」というふうに書くはずです。それなのに、「愛がなければ、わたしは騒がしいどら、やかましいシンバル」、「愛がなければ、(口語訳、新改訳は「わたしは」が入っている。)無に等しい」、「愛がなければ、わたしに何の益もない」となっています。「あなたがた」ではなく、「わたし」となっているのはなぜかというと、おそらくパウロは自分自身のことを言っているからだと思います。コリントの教会の人たちのことを、あなたがたには愛がない、と言っているのではなく、自分自身には愛がない。愛のない自分はこうであったのだ、と正直に告白しているのです。
 しかし、この後、4節以下の言葉を読みますと、自分には愛がない。そのことは、パウロだけでなく、私たちも同じであることが分かると思います。
13:4 愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。13:5 礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。13:6 不義を喜ばず、真実を喜ぶ。13:7 すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。
 ここに語られていることを読むと、聖書が教える愛と自分はほど遠いと思わざるを得ないのではないでしょうか。ただただ反省するほかない。そういう言葉がここに語られています。そうすると、私たちは、この箇所から、自分には愛がない。自分がそういうダメな人間であることを私たちに知らせ、責め立てるようなこと、それがここで言われていることなのでしょうか?
 いいえ、そうではありません。私たちは、忍耐強いわけでもなく、妬んだり、自慢したり、すぐにいらだち、恨みを抱くような者ですが、そういう私たちに対して、この愛を持って、臨んでおられる方がいるということが言われているのです。ここで言われている愛というのは、神さまの愛のことです。神さまは、ここに語られているような愛を持って、私たちに臨んでおられるのです。
 「もっとも大きな賜物」、それは、このことなのです。「もっとも大きな賜物」、それは、神さまの愛であり、神さまご自身のことなのです。ですから、「あなたがたは、もっと大きな賜物を受けるよう熱心に努めなさい」というのは、あなたに臨んでいる神さまの愛、その愛が自分に与えられたと信じて、しっかりと受け止めなさい、ということが言われているのです。
 ある方は、ここに語られている「愛」という言葉を、「イエスさま」とか、「神さまの愛」と読み替えて読んでみなさい、と言われます。そうすると、神さまという方がどのような方であるのか、確かによく分かってくると思います。しかし、それだけでなく、そういうお方が、私たちのところにおいでくださった。そして、私たちと一緒に歩んでくださっているのです。私たちが知るべきは、喜ぶべきはそのことなのです。完全な愛のお方が私たちと一緒に歩んでくださっているのです。
 8節以下をお読みします。
13:8 愛は決して滅びない。預言は廃れ、異言はやみ、知識は廃れよう、13:9 わたしたちの知識は一部分、預言も一部分だから。13:10 完全なものが来たときには、部分的なものは廃れよう。
 当時、コリントの教会の人たちの中には、自分は預言の賜物がある!異言の賜物がある!知識の賜物がある!そう言って、誇っていた人たちがいたようです。しかし、パウロは、こう言います。そういうものは、いつかは廃れ、止んでいく。部分的なものに過ぎない。けれども、神さまの愛はいつまでも滅びない。10節には、「完全なものが来たときには・・・」とあります。これは、イエスさまの再臨、イエスさまが再びおいでになる時のことが言われています。神さまの愛は完全でいつまでもなくならない。しかし、部分的なものは廃れるというのです。
13:11 幼子だったとき、わたしは幼子のように話し、幼子のように思い、幼子のように考えていた。成人した今、幼子のことを棄てた。
 「幼子」というと、聖書では、良いイメージがあります。幼子のように、神さまを求める。それは大事なことですが、ここで言われているのは、否定的な意味での幼子です。自分のことしか考えられない、他人のことを思いやることができない。そういう者に留まってはならないのです。成人となっていく。キリストにある成人へと私たちは成長していかなければならないのです。教会はいつも成長していく必要があります。どのようにして、私たちは成長していくのでしょうか?私たちが肉体的に成長するためには、あるいは健康を維持するためには、食事を摂ることです。教会の成長、信仰の成長もやはり食事が必要です。ペトロの手紙一2章1、2節には、このようなことが書かれています。
2:1 だから、悪意、偽り、偽善、ねたみ、悪口をみな捨て去って、2:2 生まれたばかりの乳飲み子のように、混じりけのない霊の乳を慕い求めなさい。これを飲んで成長し、救われるようになるためです。
「混じりけのない霊の乳」、それは、神さまの言葉です。神さまの言葉こそは、霊の乳、霊の食物です。私たちは、みんなで一緒に神さまの言葉を分かち合い、一緒に祈り合い、一緒に神さまの働きに励み、成長していくのです。
13:12 わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。だがそのときには、顔と顔とを合わせて見ることになる。わたしは、今は一部しか知らなくとも、そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる。
 今の私たちは、まだイエスさまが再びおいでになるまでは、つまり、完全なものが来るまでは、ここに語られているように、鏡におぼろに映ったものを見ているような状態です。でも、主がおいでになったら、はっきりと見る、はっきりと知るようになる、というのです。私は、12節の後半の言葉にとても励まされ、慰められました。「そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる」。
 「はっきり知られているように」とあります。口語訳聖書では、「わたしが完全に知られているように」となっていました。私たちは、今すでに、神さまから、はっきり、完全に知られているのです。神さまからすべてを知られていると思うと、怖いような気がしますが、神さまは愛の方です。決して私たちを悪いようにはなさいません。その愛の方が私たちのすべてを知っておられるのです。「私のことを誰も理解してくれない」。「私の苦しみ、悲しみを誰も分かってくれない」。そう思って、心が閉じられてしまっている方があるかもしれません。けれども、神さまは、私たちのことを理解しておられ、私たちの苦しみ、悲しみを分かっておられます。愛の神さまは、私たちを励まし、慰め、生かしてくださいます。そして、そればかりか、「そのときには、・・・はっきり知ることになる」とあります。その時、それは、主が再びおいでになる時です。その時には、私たちもすべてを知ることになる。神さまが、私たちにすべてを教えてくださるのです。

(むすび)
 今日の最後の言葉をお読みします。
13:13 それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。
 神さまが私たちに与えてくださった賜物、神さまからの恵みの贈り物、それは、信仰と希望と愛なのです。預言や異言や知識、そういうものは廃れ、止みますが、信仰と希望と愛はいつまでも残るのです。その中で最も大いなるものとして、愛が言われています。なぜ、愛だけが最も大いなるものと言われるのかというと、信仰と希望は神さまが私たちに与えてくださるものです。しかし、愛は神さまご自身だからです。神さまは私たちに愛を与えてくださった。神さまのみ子であるイエスさまを与えてくださったのです。
 間もなく受難週です。私たちは、イエスさまが十字架におかかりになったことをおぼえ、そして、イエスさまの復活をおぼえるイースターです。十字架と復活、これこそは、神さまの愛を示す出来事です。私たちに、神さまの愛であるイエスさまが与えられたことを心から喜び、感謝して、受難週、イースターを迎えたいと思います。

祈り
恵み深い主なる神さま
 お読みしました聖書の言葉から、私たちの愛ではなく、また私たちの愛の無さや貧しさでもなく、私たちに与えられた神さまの愛を教えていただき、ありがとうございます。
 最も大きな賜物、それは神さまの愛であり、イエスさまです。それは、イエスさまを信じるすべての人に与えられました。私たちは、神さまの言葉から、それがどんなに素晴らしいものであるのか、もっともっと知ることができますように。そして、私たちの生きる歩みの中で、その愛が表されますように導いてください。
 また、この神さまの愛、イエスさまをまだ知らない方、受け取っていない方に、お知らせし、一人でも多くの方が受け取ることができますように導いてください。
私たちの救い主イエス・キリストのみ名によってお祈りします。 アーメン

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