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【礼拝説教】2021年6月6日「祈り求める信仰」

聖書―マルコによる福音書11章12~25節
(はじめに)
 教会の会堂リニューアル工事が無事に終わりました。二月から足場を組み、三月から五月まで、三ヶ月にわたる工事でした。教会というと、ここに集まっている皆さんのことを指します。聖書には、「教会はキリストの体」(エフェソ1章23節)とあります。私たち一人一人が神さまの前にかけがけのない一人一人で、体の各部分です。そして、教会が伝道するというのは、「あなたは神さまの前にかけがえのない、大切な一人です」ということを伝えていくことです。
 しかし、教会のもう一面、それは目に見える建物です。教会は、神さまを礼拝する場所、神さまの愛と義が表される場所です。日本では、神社や仏閣の建築や補修に携わる大工さんのことを宮大工と言います。ちょうど工事の終わる頃、毎日、工事の現場の働きをしてくださった方が宮大工の話を星さんとなさっていましたが、今回の教会のリニューアル工事に携わってくださった皆さんも宮大工のような方々だなあ、と思いました。教会の建物については、国や教派や神学、あるいは信仰などの違いが表れたりもしますが、この赤塚バプテスト教会は重厚な、荘厳な、というよりも、この街の皆さんが入って来やすいような「街の教会」のようなものを私は勝手にイメージしています。「街の教会」、どこかのコンビニエンスストアの標語みたいですが、その一方、今回のリニューアル工事の後、教会の皆さんの中からは、「白い教会になった」という声を聞きます。「白い教会」と聞いて、私はヨハネの黙示録7章14節の言葉を思い起こしました。「彼らは大きな苦難を通って来た者で、その衣を小羊の血で洗って白くした」。小羊の血とは、イエス・キリストの十字架の血のことで、イエスさまが私たちを罪から救うために命をささげてくださった、という意味です。イエスさまによって、私たちは白くされた。この白くされた、というのは、救われた、清められた、という意味です。イエスさまの十字架の救いを人々にお伝えする教会としてますます励んでいきたいと願っています。工事に携わった方々には心から感謝いたします。また教会も建物のリニューアルをしましたが、私たちの信仰も日々、リニューアルしていきたいと思います。

(聖書から)
 さて、今日お読みしました聖書はマルコによる福音書11章12節からです。イエスさまと弟子たちの一行がベタニアという町を出る時の話が書かれています。読んでみましょう。
11:12 翌日、一行がベタニアを出るとき、イエスは空腹を覚えられた。11:13 そこで、葉の茂ったいちじくの木を遠くから見て、実がなってはいないかと近寄られたが、葉のほかは何もなかった。いちじくの季節ではなかったからである。11:14 イエスはその木に向かって、「今から後いつまでも、お前から実を食べる者がないように」と言われた。弟子たちはこれを聞いていた。
 私たちの教会で使用している聖書は新共同訳という名前の聖書です。これは1987年に出版されたもので、カトリック教会とプロテスタントの諸教会が協力して翻訳したもので、カトリック教会とプロテスタント諸教会が一緒に、共同で聖書を翻訳するというのは画期的なことでした。名前も共同で訳したということで新共同訳と付けましたが、一昨年2018年には、さらに最新の翻訳、聖書協会共同訳が出版されました。工事関係の方々には、この最新の翻訳聖書を工事の完成感謝に贈呈いたしました。どうぞ、お読みいただけたらと思います。
 聖書の内容に戻ります。イエスさまは空腹を覚えられ、いちじくの木をご覧になりました。いちじくの実がなっていないだろうかと近寄られましたが、葉の他は何もなかった、ということです。そのことについて、聖書は「いちじくの季節ではなかったからである」と書いてあります。いちじくの実のなる季節ではなかった、ということでしょう。そうであるなら、仕方のないことです。ところが、イエスさまはいちじくの木に向かって、このようなことを言われました。「今から後いつまでも、お前から実を食べる者がないように」。弟子たちはこの様子を見ていた、聞いていた、ということです。
 ここから、私たちは何を聞くでしょうか?イエスさまはいちじくの実のなる季節でもないのに、なぜ、こんなことを言うのだろうか?イエスさまの言われること自体、おかしなことだ、と思われるかもしれません。私もここまでを読んでみても、イエスさまが何をおっしゃりたかったのか、よく分かりません。すると、この後に、15~19節の言葉が続いています。
11:15 それから、一行はエルサレムに来た。イエスは神殿の境内に入り、そこで売り買いしていた人々を追い出し始め、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けをひっくり返された。11:16 また、境内を通って物を運ぶこともお許しにならなかった。11:17 そして、人々に教えて言われた。「こう書いてあるではないか。『わたしの家は、すべての国の人の/祈りの家と呼ばれるべきである。』/ところが、あなたたちは/それを強盗の巣にしてしまった。」
11:18 祭司長たちや律法学者たちはこれを聞いて、イエスをどのようにして殺そうかと謀った。群衆が皆その教えに打たれていたので、彼らはイエスを恐れたからである。11:19 夕方になると、イエスは弟子たちと都の外に出て行かれた。
 新共同訳聖書では、「神殿から商人を追い出す」という小見出しが付いています。イエスさまが神殿、神さまを礼拝する場所に行かれ、そこで商売をしていた人たちを追い出した、ということが書かれていました。このユダヤのエルサレムの神殿では、多くの人たちが神さまを礼拝するためにささげものをしていました。両替人とか、鳩を売る人というのは、神さまにささげるための献金を用意するため、神さまにささげるための動物を用意するため、そこにいたのですが、イエスさまは聖書の言葉を引用して、こう言われました。「こう書いてあるではないか。『わたしの家は、すべての国の人の/祈りの家と呼ばれるべきである。』/ところが、あなたたちは/それを強盗の巣にしてしまった」。
 イエスさまは神殿の境内で商売をする人たちのことを批判したのでしょうか、怒ったのでしょうか?いいえ、そうではありませんでした。もう一度、イエスさまのお語りになった言葉を読んでみますと、「わたしの家は、すべての国の人の/祈りの家と呼ばれるべきである」とあります。「わたしの家」。イエスさまは神さまを礼拝する場所を、「わたしの家」と言われたのです。先ほど、この教会という建物は神さまを礼拝する場所であると言いました。それはイエスさまにとっては、「わたしの家」だというのです。イエスさまは、ここは「わたしの家」、神さまを礼拝し、神さまに祈る場所なのだ、と言われたのです。ところが、あなたたちはこの場所を強盗の巣にしてしまった。
 イエスさまは商売そのものを批判しているわけではなく、当時のユダヤの宗教者たち、この人たちが神さまを礼拝する場所、神さまに祈る場所を強盗の巣にしてしまった、と言っているのです。不正が行われ、貧しい人たちを顧みないで、自分たちの利益追求のみを求め、神さまのみ心、神さまの愛と義を求めるようなことをしなかった。そのことをイエスさまはお怒りになったのです。
 イエスさまが引用された聖書の言葉(イザヤ書56章7節、エレミヤ書7章11節)、そこには「すべての国の人の祈りの家」とありました。聖書協会共同訳では「すべての民の祈りの家」となっています。この「すべての国の人」、「すべての民」というのは、全世界の人たちということです。両替の場、鳩を売る場となっていたのは、神殿の中の「異邦人の庭」と言われるところでした。またエルサレムの神殿の中にはユダヤ人だけが入れましたが、ユダヤ人以外の人たち、異邦人、外国人のことですが、この人たちは神殿の中に入れず、異邦人の庭で神さまを礼拝していたのです。これを現代の教会で例えていうと、ある国の人たちだけはこの教会の礼拝堂に入って礼拝してもよい。でも、他の国の人たちは外で礼拝しなさい、と言っているようなものです。イエスさまは当時のユダヤの宗教者たちの不正、そして、自分たち以外の国の人たちを差別していたこと、そういうことも批判されたのではないでしょうか。繰り返しますが、イエスさまは聖書の言葉を引用してこう言われたのです。「わたしの家は、すべての国の人の/祈りの家と呼ばれるべきである」。この神殿は、この教会は、世界中の誰もが集って、一緒に礼拝し、祈る場所なのだ、と言われたのです。
 いちじくの木の話に戻ります。イエスさまはいちじくの木の実がなっていないこと、そのことを通して、弟子たちに大切なことを教えられたのです。あなたがたも信仰の実がなるようにしなさい。宗教は、信仰は気をつけていないと、すぐに形骸化してしまう、形だけのものになってしまうものです。礼拝に出ていればよい。ささげものをやればよい。熱心に活動すればよい。しかし、最も大事なことは、神さまの前にどうか、どう生きるか、ということです。神さまとの関係、内実が問われるのです。

(むすび)
11:23 はっきり言っておく。だれでもこの山に向かい、『立ち上がって、海に飛び込め』と言い、少しも疑わず、自分の言うとおりになると信じるならば、そのとおりになる。11:24 だから、言っておく。祈り求めるものはすべて既に得られたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになる。11:25 また、立って祈るとき、だれかに対して何か恨みに思うことがあれば、赦してあげなさい。そうすれば、あなたがたの天の父も、あなたがたの過ちを赦してくださる。」
 イエスさまがお話しされたこと、それは祈り求めなさい、ということです。ここで言われている「山」というのは、私たちを妨げるものということです。その山を動かすように、祈り求めなさい、というのです。昔、土井たか子という政治家がいました。この人がある選挙の時、こういうことを言ったのです。「山が動いた」。これはこの聖書の言葉の引用だそうです。土井さんは学生時代にクリスチャンになった方でした。私たちも神さまの愛と義を求めて生きる時、いろいろな山、妨げが起こってきますが、神さまに祈り求めていきましょう。神さまが山を動かしてくださることを信じていきましょう。
そして、今日の箇所の最後には、「赦し」ということが語られていました。私たち人間は一人で生きていく者ではありません。他者と共に生きる者です。けれども他者と共に生きるというのは簡単なことではありません。共に生きるためには、互いに愛し合うとか、赦し合うことが大事です。人は赦し、赦され、生きる存在です。愛し合う、赦し合うというのは美しい言葉ですが、本当に難しいことです。愛し合う、赦し合う。このことを実行しようとする時、私たちの愛の無さとか、心の貧しさに気づかされます。そういう私たちですが、互いの間にイエスさまがおられ、イエスさまが人と人との間を執り成しておられる。十字架というのは執り成しであるということをいつも心に覚えていたいと思います。イエスさまの十字架の愛が私たちを愛し合う者へ、赦し合う者へと導いてくださることを信じて祈りつつ歩みましょう。

祈り
恵み深い主なる神さま
 主はいちじくの木の実りを求めたように、私たちの信仰の実りを求めておられます。それは生きた信仰です。神殿で主は人々が死んだ信仰のようになっていること、神さまのみ心が忘れ去られ、本当に大事にすべきことが見失われている状態を怒り、悲しまれました。
 私たちもそのような状態に陥っていないか、聖書を通して、神さまのまなざしから、自分たちの姿を知ることができますように。教会の建物がリニューアルされ、私たちは喜んでいますが、私たち自身の信仰もリニューアルされ、生けるキリストと共に、生きた信仰、神さまのみ心によって歩むことができますように。
私たちの救い主イエス・キリストのみ名によってお祈りします。 アーメン

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