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【礼拝説教】2021年7月25日「喜び、祈り、感謝」

聖書―テサロニケの信徒への手紙一5章12~28節
(はじめに)
 礼拝の説教の聖書箇所として読み続けてきたテサロニケの信徒への手紙一は今日で終わります。新共同訳聖書の小見出しにありますように、今日お読みしました聖書箇所は、このテサロニケの信徒への手紙一の「結びの言葉」です。ところで、この聖書箇所は手紙ということですが、自分のことを考えてみると、長い間、手紙というものを書いていないことに気づかされました。最近はインターネットの普及もあり、書いたらすぐに届くメールを使うようになりました。またもう九年前になりますが、ギランバレー症候群という病気になって、今は日常生活にちっとも支障はありませんが、文章を書くとき、手や腕がすぐに疲れてしまいます。そういうこともあって、手紙を書くということが億劫になって、あまりしなくなりました。しかし、先日、ある知人の先生から、出版した御本を贈呈していただきました。その感謝を表したいと、御礼の言葉を手紙で書きたいと思い、手紙ですと、長文になるので、はがきで御礼の言葉を書きました。読める字で書けたとは思いますが、字の上手下手はともかく、手書きというのもなかなか良いものだと思いました。今はコロナ禍にあり、顔と顔を合わせるということが難しいですが、このデジタルの時代にあって、あえてアナログのやり方でのやり取りというのも良いかもしれません。

(聖書から)
 さて、今日お読みしましたこの手紙の最後の箇所ですが、12、13節にはこのようなことが書かれていました。
5:12 兄弟たち、あなたがたにお願いします。あなたがたの間で労苦し、主に結ばれた者として導き戒めている人々を重んじ、5:13 また、そのように働いてくれるのですから、愛をもって心から尊敬しなさい。互いに平和に過ごしなさい。
 テサロニケの教会の人たちに対して、パウロはこのように語ります。ここで言われていることは「感謝」ということだと思います。誰に対してであるかというと、「あなたがたの間で労苦し、主に結ばれた者として導き戒めている人々」とあります。教会の指導者の人たちに感謝するように、ということです。感謝するということ、この反対は何でしょうか?感謝しない。それは当然のことと思う、当たり前だと思う、ということです。
 ここでは教会の指導者に対しての勧めが語られていますが、私たちの関わりということを考えてみますと、家族、また職場の人たち、友人、そういった関わりがあります。その関わりの中で、私たちはどれだけ感謝しているか、感謝を表しているでしょうか?このように話しています私自身も、感謝しているだろうか?感謝を表しているだろうか?というと、感謝することが少ないことを反省させられます。家族には生活のことでいろいろと支えられています。教会の皆さんには、この働きのために、多くの支えを受け、また祈られています。その一つ一つを感謝するように、と私はこの聖書の言葉から教えられています。一つ一つのことが当然、当たり前というのではない。受けている恵みを感謝することを教えられています。
 次に教会の兄弟姉妹、互いに対しての勧めが語られています。
5:14 兄弟たち、あなたがたに勧めます。怠けている者たちを戒めなさい。気落ちしている者たちを励ましなさい。弱い者たちを助けなさい。すべての人に対して忍耐強く接しなさい。5:15 だれも、悪をもって悪に報いることのないように気をつけなさい。お互いの間でも、すべての人に対しても、いつも善を行うよう努めなさい。
 どのような勧めであるかというと、「怠けている者たちを戒めなさい。気落ちしている者たちを励ましなさい。弱い者たちを助けなさい。すべての人に対して忍耐強く接しなさい」ということです。特にここには弱さをおぼえている兄弟姉妹に対しての勧めが言われています。特にここで教えられることは、「すべての人に対して忍耐強く接しなさい」、「お互いの間でも、すべての人に対しても、いつも善を行うよう努めなさい」ということです。忍耐強く接すること、善を行うように努めることです。このことが踏まえられないなら、戒めるとか、励ますとか、助けるということが独りよがりになってしまったり、今の言い方でいうと、上から目線になってしまったりするのではないかと思います。教えてやろう、励ましてやろう、助けてやろう、というのではなく、神さまが私たちに対して、愛を持って忍耐強く接してくださったように、善を、善い道に歩むように接してくださったように、私たちも主に倣って接していくことが大事なことではないでしょうか。
 そして、これに続いて、次の言葉です。お読みするこれらの言葉は、皆さんの中には、愛唱聖句、ご自分の信仰生活のテーマにしている方もおられるかもしれません。
5:16 いつも喜んでいなさい。5:17 絶えず祈りなさい。5:18 どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。
 この聖書の言葉は、そのまま賛美歌の歌詞として使われたりします。私たちの教会で使っている「新生讃美歌」の446番もその一つです。この歌詞を賛美して味わい、心にしっかり刻んでおきたいと思う言葉です。しかし、このみ言葉は口ずさめば、口ずさむほど、私たちには実行するのに難しい、私たちにはほど遠いように思えます。しかも「これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです」とありますから、大変重い言葉のようにも思えます。私たちはこのみ言葉をどのように受け止めていったら良いでしょうか。二つの聖書の言葉を併せて読んでみたいと思います。一つはフィリピの信徒への手紙4章4節、もう一つはエフェソの信徒への手紙6章18節です。
4:4 主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい。(フィリピ4章4節)
6:18 どのような時にも、“霊”に助けられて祈り、願い求め、すべての聖なる者たちのために、絶えず目を覚まして根気よく祈り続けなさい。(エフェソ6章18節)
 「いつも喜んでいなさい」。この言葉がフィリピの信徒への手紙では「主において常に喜びなさい」となっています。「主において」という言葉があります。それから、「絶えず祈りなさい」。この言葉がエフェソの信徒への手紙では「どのような時にも、“霊”に助けられて祈り、願い求め」となっています。「“霊”に助けられて」という言葉があります。これらのことから教えられるのは、私たちが自分の力で一生懸命に喜ぶように、祈るように、感謝するように、ということが言われているのではないということです。これらのことは、「主において」、「“霊”に助けられて」とありますように、主が、聖霊が私たちと共にあって、私たちを助けて、喜ぶ者へと、祈る者へと、感謝する者へと導いてくださるということです。そうすると、「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい」というのは、私たちの気持ちを重くして、苦しめるような言葉ではなく、希望の言葉なのです。主が私たちをそのような者へと変えてくださる。私たちはそのことを信じて歩めばよいのです。
 この後の23節以下の言葉、これはパウロがテサロニケの教会のために祈った言葉だと思います。このようにパウロは祈っています。
5:23 どうか、平和の神御自身が、あなたがたを全く聖なる者としてくださいますように。また、あなたがたの霊も魂も体も何一つ欠けたところのないものとして守り、わたしたちの主イエス・キリストの来られるとき、非のうちどころのないものとしてくださいますように。5:24 あなたがたをお招きになった方は、真実で、必ずそのとおりにしてくださいます。
 神さまがあなたがたを完全に聖なる者としてくださる。何一つ欠けたところのない、非の打ち所のない者にしてくださる。パウロは確信に満ちて、このようにも言っています。「必ずそのとおりにしてくださいます」。パウロのテサロニケの教会への勧め。それはもちろん、テサロニケの教会の人たち自身がそのように変えられることを願い、祈るように、ということでもありますが、神さまがあなたがたを変えてくださる。パウロはそのことを本気で信じていたのです。私たちも本気で信じて、祈っていこうではありませんか。

(むすび)
 「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい」。これはテサロニケの教会の人たちに対して、そして、私たちにもそのように勧められている言葉ですが、イエスさまという方が、いつも喜び、絶えず祈り、どんなことにも感謝する方であったということ。そして、イエスさまは私たちに関して言えば、私たちのことをいつも喜び、私たちのために絶えず祈り、私たちのことを神さまに感謝する方であるということをおぼえたいと思います。そのことを知る時、私たちも、このみ言葉のように生きていきたいと思うのではないでしょうか。
5:25 兄弟たち、わたしたちのためにも祈ってください。
 パウロはこのように、自分のことも祈ってほしい、とテサロニケの教会の人たちに言っています。このように、信仰というのは、一方的なものではなくて、双方向のものです。神さまと私、私とあなた、双方向での関わり、交わりです。最初にメールや手紙の話をしましたが、これらも双方向の関わり、交わりです。声を掛け、また声を掛けられ、祈り、また祈られ、そのようにして、私たちは神さまと、そして、お互いの間で生きた交わりをしていくのです。
私たちの教会はこのように、会堂に集い、顔と顔を合わせて一緒に礼拝ができるということ、これは本当に素晴らしいことですが、まだこのような形での礼拝が行えないでいるという教会が、私たちの身近な地域にもあります。それは残念なことですし、辛いことですが、パウロは「わたしは体では離れていても、霊ではあなたがたと共にいて・・・」(コロサイ2章5節)と言っていますように、「霊にあっては共にいる」ということを、その教会の方々は身を持って体験しておられるのではないかと思います。私たちは主にある兄弟姉妹のことを祈り、また今申し上げたような状況にある近隣の教会のことも祈っていきたいと思います。喜び、祈り、感謝、この歩みヘと導いてくださる主を見上げて歩んでいきましょう。

祈り
恵み深い主なる神さま
 「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい」。このみ言葉をありがとうございます。このみ言葉を聞く度に、いつも喜んでいるか?絶えず祈っているか?どんなことにも感謝しているか?と問いかけられているように思っていました。しかし、主が私たちをそのような者としてくださる。希望の言葉であると知らされ、心より感謝します。
 喜べないこと、祈れないこと、感謝できないことの多い者ですが、主が共におられ、歩んでくださる時、私たちを喜びへ、祈りへ、感謝へと導いてくださいます。どうか、自分だけで歩んでいるように思うことがないように、私たちの信仰の目、イエスさまを見つめる目を開かせてくださいますようにお願いします。
 コロナ禍にあって苦闘している教会は私たちだけではありません。主にある教会がそれぞれ苦闘しながら、主を希望として歩んでいます。どうぞ、主の守り、助けをお願いします。互いに祈り合う兄弟姉妹、互いに祈り合う諸教会としてください。そして、そのことを通して、主の栄光が豊かに表されますように。
私たちの救い主イエス・キリストのみ名によってお祈りします。 アーメン

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