【週報巻頭言】2021年8月15日 希望の言葉として聴く(一テサロニケ5章12~28節)
「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。」(一テサロニケ5章16~28節)
この聖書の言葉は、そのまま賛美歌の歌詞として使われたりします。私たちの教会で使っている「新生讃美歌」の446番もその一つです。この歌詞を賛美して味わい、心にしっかり刻んでおきたいと思う言葉です。しかし、このみ言葉は口ずさめば、口ずさむほど、私たちには実行するのに難しい、私たちにはほど遠いように思えます。しかも「これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです」とありますから、大変重い言葉のようにも思えます。私たちはこのみ言葉をどのように受け止めていったら良いでしょうか。二つの聖書の言葉を併せて読んでみたいと思います。
「主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい。」(フィリピ4章4節)
「どのような時にも、“霊”に助けられて祈り、願い求め、すべての聖なる者たちのために、絶えず目を覚まして根気よく祈り続けなさい。」(エフェソ6章18節)
「いつも喜んでいなさい」。この言葉がフィリピの信徒への手紙では「主において常に喜びなさい」となっています。「主において」という言葉があります。それから、「絶えず祈りなさい」。この言葉がエフェソの信徒への手紙では「どのような時にも、“霊”に助けられて祈り、願い求め」となっています。「“霊”に助けられて」という言葉があります。これらのことから教えられるのは、私たちが自分の力で一生懸命に喜ぶように、祈るように、感謝するように、ということが言われているのではないということです。これらのことは、「主において」、「“霊”に助けられて」とありますように、主が、聖霊が私たちと共にあって、私たちを助けて、喜ぶ者へと、祈る者へと、感謝する者へと導いてくださるということです。そうすると、「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい」というのは、私たちの気持ちを重くして、苦しめるような言葉ではなく、希望の言葉なのです。主が私たちをそのような者へと変えてくださる。私たちはそのことを信じて歩めばよいのです。
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