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【礼拝説教】2021年9月19日「救われる者には神の力」

2021年9月19日(日)(朝・夕)赤塚教会礼拝説教「救われる者には神の力」コリントの信徒への手紙一1章18~25節

聖書―コリントの信徒への手紙一1章18~25節
(はじめに)
教会の礼拝の中で毎週、語られる言葉、それが宣教、または説教と言います。説教というと、一般的にはお説教ということを思い浮かべるかもしれません。お説教される、というと、何か叱られるようなイメージがありますが、教会の説教というのは、そうではありません。今日、お読みしました聖書の言葉は、この宣教についての話が書かれていました。

(聖書から)
18節をお読みします。
1:18 十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。
「十字架の言葉」とあります。それは何かと言いますと、イエス・キリストが十字架におかかりになり、私たちの罪のために死んでくださったことを言っています。ところで、罪というと、教会に初めておいでになった方は、罪とは何だろうか?と思われるでしょう。聖書が罪と言っているのは、的外れという意味です。的を外した生き方。もっと具体的に言いますと、神さまが求めておられる生き方から外れた生き方、それが罪ということです。
では、神さまが求めておられる生き方とは何でしょうか。何週か前に、礼拝でお話しした聖書の言葉にそのことが書いてありました。聖書の教えの中心とも言える言葉です(マルコ12章29、31節)。イエスさまはある律法学者から質問を受けました。神さまの掟の中で、最も大切なことは何ですか。すると、イエスさまはこのようにお答えになりました。
12:29 イエスはお答えになった。「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。12:30 心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』12:31 第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにない。」
最も大切な掟、それは神さまを愛すること、そして、隣人を自分のように愛すること。この二つが最も大切な掟です、とお答えになりました。ある牧師先生は、このことについて、十字架で説明されます。ここにも十字架がありますが、縦の木は神さまと私たち人間の関係です。そして、横の木は私たちお互いの人間の関係です。まず、縦の関係についてお話ししますと、神さまは私たちを愛しておられる。私たちは神さまがこの私を愛しておられることを知って、私もまた神さまを愛する。神さまの愛に応えて生きるのです。次に横の関係です。私たちお互いの人間のことと言いました。私たちは神さまが私を愛しておられる。そのことを知って、神さまを愛し、お互いを愛することに努めるのです。これが聖書の教える神さまの掟です。聖書はご覧のように、大変分厚い書物で、たくさんの言葉が書いてありますが、そのすべての中心、土台が神さまを愛し、隣人を愛するということです。
けれども、私たちはなかなか神さまを愛するとか、隣人を愛することができません。自分のことが一番大事です。この前、テレビを見ていましたら、ある有名な芸能人が、番組が終わって帰ろうと自分の車に乗り込んだ時、つるはしを持って襲いかかってきた人がいて、大変恐ろしい思いをした、と話していました。そして、自分の車の運転手さんも同じように恐ろしい思いをしたと思うけれど、その時には運転手さんのことは何も考えられなかった。人間というのは、自分のことばかり考えてしまう性質があるのだ、と思った、と言っていましたが、私も本当にそうだ、と思いました。自分が危機的な時、大変な時、自分のことしか考えられなくなる。そういう時でも、人のために、というのはなかなかできない。それが私たち人間だと思います。
しかし、そういう私たちのために、イエスさまは十字架にかかり、私たちを罪から救ってくださいました。私たち自身は人のために、とか、人を愛するというのは、難しい者ですが、イエスさまと一緒に歩む時、イエスさまの愛、神さまの愛によって生きる者へと変えられていく。それが聖書の教える約束です。今日は敬老のお祝いをしましたが、その時によく読まれる聖書の言葉です(二コリント4章16節)。
4:16 だから、わたしたちは落胆しません。たとえわたしたちの「外なる人」は衰えていくとしても、わたしたちの「内なる人」は日々新たにされていきます。
この「外なる人」というのは、肉体を持ち、弱さを抱えた私たち人間のことを言っています。長く生きていきますと、肉体の衰えをおぼえることがあります。しかし、私たちの「内なる人」は日々新たにされる。私たちは日々、新たに、イエスさまに似た者とされる。イエスさまに似た者、ということですから、神さまの愛に生きる者へと変えられていく、ということです。
聖書の言葉はこのように、私たちを生かす、素晴らしい言葉が語られています。しかし、世の中の多くの人たちにとっては、そうではありません。今日の聖書の言葉から、21節をお読みします。
1:21 世は自分の知恵で神を知ることができませんでした。それは神の知恵にかなっています。そこで神は、宣教という愚かな手段によって信じる者を救おうと、お考えになったのです。
ここで「世」というのは、世の中、また人間のことを言っています。私たち人間は、この世の知恵、人間の知恵によっては神さまを知ることはできない、というのです。そして、最初にお話ししました宣教、ここにはこう書いてあります。「神は、宣教という愚かな手段によって信じる者を救おうと、お考えになった」。「宣教という愚かな手段」とあります。教会に来たら、イエスさまの話ばかりだ。もっと世の中の面白い話をしたらいいのに。生活の知恵とか、聞いて得になる話をしたらいいのに。そうしたら、もっと人が集まるのに。そのように思われる方があるかもしれません。でも、神さまは宣教という愚かな手段、(これは人間の考えからみて、愚かに思えるということです。)宣教の言葉を用いられるというのです。宣教というのは、十字架の言葉、イエスさまが私たちのために十字架にかかって罪から救ってくださったという話です。そんな話を誰が聞くのか、と思われるかもしれません。しかし、神さまはこの話、この出来事こそが救いなのだ、と言われるのです。

(むすび)
もう一度、18節の言葉を読んでみます。「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です」。イエスさまの十字架の救いという話、それは世の中の考えからすると、愚かな話のように思えるかもしれません。そんなことを聞いても、信じても、何もならない、と思うかもしれません。けれども、ここには「わたしたち救われる者には神の力」とあります。
私は高校生の時にイエスさまを信じました。牧師の家庭に生まれましたので、生まれたときから教会に行っていたわけですが、幼い時から、聖書の話を聞いて育ちました。イエスさまを信じたい、という思いも持っていました。思春期の時代、皆さんもそうだったと思いますが、世の中や、大人を厳しく見るようになってきました。教会に来ていても、クリスチャンといっても、本当に真実に、立派に生きているかどうか・・・。人に対して、厳しく裁きの目で見たりするようになりました。しかし、ある時、気づかされたこと、それは、そうやって、人を裁いているあなた自身はどうなのか、という問いかけでした。自分のことを棚に上げて、人のことを裁いている。これこそが罪なのだ。神さまの前には、すべての人は、この私も、みんな罪人なのだ、ということが分かるようになりました。おそらく、その心の中の問いかけというのは、神さまからの問いかけだったと思います。神さまは、私に対して、自分自身はどうなのか、ということを気づかせてくださったのだ、と思います。イエスさまがそういう私のために、そういうすべての人のために、十字架にかかり、罪を赦し、新しい人生へと導いてくださった。そのことを心からアーメン、そうです、と言うことができるようになりました。そして、イエス・キリストを私の救い主と信じ受け入れました。
「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です」。私は神さまの力、十字架の救いによって日々、新しく生きる者とされていることを今は心から喜びとしています。クリスチャンというのは、完全な人というのではありません。不完全な、罪人ですが、完全に正しい方、愛の方である神さまによって、日々、新たにされていく、イエスさまに似た者とされていく者です。このことを希望として歩んでまいりましょう。

祈り
恵み深い主なる神さま
私たちが教会で聴く言葉、宣教、それは十字架の言葉です。
イエス・キリストがこの私のために十字架にかかり、罪から救ってくださった。その言葉です。けれども、世の中においては、そんなことを聞いても、信じても、何になるだろうか、と思われる、愚かなことのように思われる言葉、出来事です。
しかし、その言葉が救いの言葉であり、神さまの力であると聖書は語ります。ここにおいでになっているお一人お一人も、十字架の言葉を私の救い、神さまの力と信じて、励ましを受け、慰めを受け、希望を持って生きる者とされました。
世の知恵、人間の知恵では、神さまを知ること、信じることはできませんが、どうか、神さまが聖霊によって、お一人お一人に語りかけ、心の目を開かせて、新たに、宣教の言葉、十字架の言葉を私の救い、神さまの力と信じることができますように導いてください。
私たちの救い主イエス・キリストのみ名によってお祈りします。 アーメン

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