【礼拝説教】2022年1月9日「主の晩餐の意味」
聖書―マルコによる福音書14章22~26節
(はじめに)
私たちの教会では、毎月第一主日、月の最初の日曜日に、主の晩餐式を行なっていました。一昨年の新型コロナ感染により、その予防のため、教会の中で飲食をすることを止めました。具体的には、2020年の3月からになりますが、朝礼拝の後のお昼の食事は止めました。そして、主の晩餐式も、パンを食べ、杯を飲む行為ですので、止めました。どちらも再開される日が来るように願っていますが、主の晩餐については、教会の大切な二つの礼典(バプテスマと主の晩餐)の一つですから、何らかの形で行ないたいと願って、先月からは第二主日の礼拝の中で、パンと杯の配餐はしませんが、主の晩餐について書かれている聖書の箇所を朗読するようにしました。そういうわけで、主の晩餐式が再開されることを待ち望みながら、今日の聖書の言葉を味わっていきたいと思います。
(聖書から)
主の晩餐についての聖書の箇所として、先ほどはコリントの信徒への手紙一11章23~26節に書かれている言葉をお読みしました。これは使徒パウロが、イエスさまが語られた言葉として書かれた内容でしたが、お読みしましたマルコによる福音書にも主の晩餐のことが書かれていました。主の晩餐、元々は先週もお話ししましたように、過越の食事のことです。改めて過越の食事についてお話ししますと、ユダヤの人たちは毎年、過越祭の時に、小羊を屠って焼き、種なしパン(パン種、イースト菌のこと)と共にそれを食べて、お祝いしました。
しかし、イエスさまがなさった過越の食事は、特別な意味を持ちました。過越の食事は毎年、過越の小羊を犠牲にして、イスラエルの民が救われたことを思い起こす行事でしたが、イエスさまが行なわれた過越の食事は一回限りで、イエスさまが過越の小羊に代わって犠牲となられ、死なれることを示されました。
主の晩餐については、一般的には、最後の晩餐として知られています。絵画などでもレオナルド・ダ・ヴィンチの作品が有名です。なぜ、最後の晩餐と言うのかというと、イエスさまが間もなく十字架におかかりになって死なれる直前、弟子たちと最後の食事をしたことが理由です。しかし、聖書から私たちが知らされることは、最後の晩餐というよりも主の晩餐ということです。すなわち、主が、イエスさまが弟子たちのために、そして、私たちのために用意してくださった晩餐ということです。さて、イエスさまはこの食事の席で、主の晩餐の意味を語られます。22節をお読みします。
14:22 一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えて言われた。「取りなさい。これはわたしの体である。」
イエスさまはパンを取り、賛美の祈りを唱えた、ということです。この「賛美の祈りを唱えて」というのは、直訳的には、「祝福して」(聖書協会共同訳など)ということですが、祝福して、というと、パンを祝福した、と考えるかもしれません。しかし、これは新共同訳聖書が訳していますように、神さまに対する賛美をささげた、ということです。そして、パンを裂き、弟子たちに与えました。その時、主はこのように言われました。「取りなさい。これはわたしの体である」。その意味は、イエスさまは十字架におかかりになりますが、そこで裂かれたイエスさまの体である、ということです。続いて、23、24節をお読みします。
14:23 また、杯を取り、感謝の祈りを唱えて、彼らにお渡しになった。彼らは皆その杯から飲んだ。14:24 そして、イエスは言われた。「これは、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。
イエスさまは弟子たちにパンを与え、さらに杯(ぶどう酒)をお渡しになります。弟子たちはイエスさまから渡されたパンを食べ、また杯を飲みました。イエスさまはこのように言われます。「これは、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である」。血ということが言われていますが、これはイエスさまが十字架におかかりになった時に流した血のことであり、また命を意味します。「多くの人のために」とありますように、イエスさまは私たちを罪から救うために十字架にかかり、命をお与えになったのです。
主の晩餐式で、私たちはパンと杯にあずかります。それはこのイエスさまの言葉が示すように、イエスさまの体と血を象徴します。日本では、キリスト教が入ってきて間もない頃、隠れキリシタンについて悪い噂が立ちました。イエスさまの体を食べ、血を飲むということから、キリスト教は人間を食べる恐ろしい宗教であると誤解されたそうです。しかし、これはあくまでもイエスさまの救いを表す象徴的なもの、シンボルです。実は、聖書を見ていきますと、ユダヤの人たちの間でも、同じような誤解があったようです。それに対して、イエスさまが説明している箇所がありますので読んでみます(ヨハネ6章48~58節)。
6:48 わたしは命のパンである。6:49 あなたたちの先祖は荒れ野でマンナを食べたが、死んでしまった。6:50 しかし、これは、天から降って来たパンであり、これを食べる者は死なない。6:51 わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである。」6:52 それで、ユダヤ人たちは、「どうしてこの人は自分の肉を我々に食べさせることができるのか」と、互いに激しく議論し始めた。6:53 イエスは言われた。「はっきり言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。6:54 わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。6:55 わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物だからである。6:56 わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる。6:57 生きておられる父がわたしをお遣わしになり、またわたしが父によって生きるように、わたしを食べる者もわたしによって生きる。6:58 これは天から降って来たパンである。先祖が食べたのに死んでしまったようなものとは違う。このパンを食べる者は永遠に生きる。」
このようにイエスさまの体と血をいただくというのは、永遠の命をいただくことであるということが言われています。
(むすび)
今日の聖書の最後の言葉をお読みします。
14:25 はっきり言っておく。神の国で新たに飲むその日まで、ぶどうの実から作ったものを飲むことはもう決してあるまい。」14:26 一同は賛美の歌をうたってから、オリーブ山へ出かけた。
「神の国で新たに飲むその日」ということが言われていました。それはイエスさまが再び来られることを意味する言葉です。ところで、主の晩餐を今、私たちが行なう意味、意義は何でしょうか?そのことについて三つのことをお話しして終わります。
第一に、主の晩餐、それはイエス・キリストが私たちを罪から救うためにその体を裂かれ、血を流された。つまり、十字架にかかってくださった救いのみわざを私たちの心に刻み、おぼえるものです。これを繰り返し行なうことで忘れないようにするのです。
第二に、主の晩餐、それはイエス・キリストを救い主と信じる者たちが共にパンにあずかり、杯にあずかることによって、互いが主によって救われたことをおぼえ、主がご自身の命をささげて私たちを愛してくださったように、私たちも互いに愛し合うことに努めていきます。
そして、第三に、主の晩餐、それは「神の国で新たに飲むその日」とありましたが、主は再び来られ、救いの完成の日が来ます。私たちはその日を待ち望みながら、与えられた今この時、主の言葉を聴いて主のみ心を知り、それを行ないます。また主の救いを人々に伝えていきます。
イエスさまが用意してくださった、教えてくださった主の晩餐。それは私たちに主がなさった救いを思い起こすため、忘れないための大切な礼典です。主の十字架の救い、主の愛を思いながら、この年も歩んでいきましょう。
祈り
恵み深い主なる神さま
今日の礼拝では、主の晩餐について、イエスさまが教えてくださったことを聴きました。
主は私たちを罪から救うために、ご自分の命をささげてくださいました。この十字架の救いのみわざに感謝します。
ここに集う私たちはお互いがイエスさまによって愛され、救いにあずかった者です。主の愛を知り、主の愛に生きる者としてください。
主は再び来られます。それまで私たちは主を待ち望みながら、主の救いのみわざを人々に伝えていきます。新たに主の救いを受け取る人がありますように。
私たちの救い主イエス・キリストのみ名によってお祈りします。 アーメン
この記事へのコメントはありません。