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【週報巻頭言】2022年1月16日 主イエスを模範として(フィリピ2章1~11節)

「何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。」(フィリピ2章3、4節)

「何事も利己心や虚栄心からするのではなく」とあります。私たちの信仰生活はどうでしょうか?伝道するとか、奉仕をするとか、それは利己心や虚栄心から行なうようなことはないでしょうか?家庭や職場での人との関わりなどはどうでしょうか?パウロはキリストを信じて生きるということは日曜日だけのことではない。教会に来ている時だけのことではない。日常の生活のただ中でのことであると言っているのです。

「利己心」。別の訳では「自己中心」(新改訳)とありました。ただ自分の満足のためということでしょうか?「虚栄心」。人に良く思われるためということでしょうか?そうであってはならない、とパウロは言うのです。「へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え」とあります。へりくだる。これはただ謙虚に振る舞うということではありません。6節以下には、キリスト賛歌と言われるイエス・キリストを賛美する言葉が書かれています。

「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が、「イエス・キリストは主である」と公に宣べて、父である神をたたえるのです。」(フィリピ2章6~11節)

イエスさまは神の子でありながら、人となられた。クリスマスとは、このことです。神さまが人となられた。そのことについて、「自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」とあります。イエスさまは人としておいでになり、僕として生きられました。へりくだって生きられました。イエスさまを模範として生きる私たちも同じです。イエスさまが生きられたように、私たちも僕として生きる、へりくだって生きるのです。

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