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【礼拝説教】2022年1月16日「キリストのものとして生きる」

2022年 1月16日(日)(朝・夕)赤塚教会礼拝説教「キリストのものとして生きる」コリントの信徒への手紙一3章18~23節

聖書―コリントの信徒への手紙一3章18~23節
(はじめに)
 2022年の年明け早々に、新型コロナの感染の再拡大が起こっています。先日の執事会でも、あまりの感染者数の増加にどうしたらよいものだろうか、と戸惑っているところです。私たちの教会はこれまでも感染拡大の予防対策をしながら、礼拝を続けていますが、まずは感染拡大が収まることを祈っていきたいと思います。
 お読みしました聖書の箇所は、コリントの信徒への手紙一3章18節からです。この箇所は、新共同訳聖書の小見出しでは、この章全体が「神のために力を合わせて働く」と付けられています。その後半の箇所になりますが、この小見出しが示しているように、神さまのために、主にある兄弟姉妹が力を合わせて働く、主の働きに参与することができたらよいのですが、コリントの教会では、それがなかなかできないでいる状態でした。
 3節をご覧いただきますと、「ねたみや争いが絶えない」ということでしたが、具体的には、どういうことであったかというと、4節にありますように、私はパウロのグループだ、私はアポロのグループだ、などと言って、自分の尊敬する人たちの名前の下に分派争いをしていました。これについて、パウロは、大切なのは、「成長させてくださる神」(7節)であると言い、また、あなたがたは「神のために力を合わせて働く者」(9節)なのだ、と言いました。その話の続きが今日お読みした聖書の言葉になります。

(聖書から)
 18節の冒頭には、「だれも自分を欺いてはなりません」とあります。自分を欺く、とはどういうことでしょうか?自分を欺く、というと、自分に正直でない、という意味に取られるかもしれません。では、自分に正直であるように。自分の考え、気持ちに正直であるように。もし、私たちがお互いにそのように振る舞うならば、どうなるでしょうか?おそらく、それこそ争いが絶えないと思います。パウロはそういう意味で、このことを言ったのではないと思います。
 今はコロナ禍にあります。みんなで会堂に集まって、礼拝を行うことが困難な教会が幾つもあります。各教会とも、どのようにして礼拝を続けていったらよいか、工夫しています。特にこの二年の間に、インターネットによる礼拝が増えたように思います。私もインターネットで、いろいろな教会の礼拝を視聴します。また、その教会の背景、信仰などを知るために、教会のホームページを閲覧します。ある教会のホームページには、教会の基本理念というところに、「正直であるように」ということが挙げられていました。
 「正直であるように」。先ほど、正直であるように、とはどういうことだろうか、ということをお話ししましたが、その教会の基本理念、「正直であるように」、とはどういう意味だろうかとその書かれている内容を読んでいきましたら、それは神さまに対する正直さ、ということであるようです。パウロが言ったこと、「自分を欺いてはならない」。これも同じことではないでしょうか?そして、パウロが言っている「自分」というのは、「肉の人」(1節)としての「自分」ではなく、「霊の人」(1節)としての「自分」です。
 「肉の人」というのは、2章14節には「自然の人」とありました。別の訳では「生れながらの人」(口語訳)となっています。神さまを知らないままで生きる自分のことです。一方、「霊の人」というのは、神さまを知り、神さまに従っていこうとする自分のことです。さらに3章16節には、このようなことも書かれています。「あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか」。パウロの言った「自分を欺いてはならない」というのは、せっかく神さまを知り、神さまに従っていこうとする者とされたのに、そして、神さまの神殿とされている者なのに、そういう自分を欺いてはいけない。そういう自分であることを見失ってはいけないということです。
霊の人、神さまの神殿とされた人、その人は神さまに対して正直であろうとします。神さまは私たちのすべてをご存じです。私たちの罪も、弱さもご存じです。そういう私たちは、神さまの前に、自分の本当の姿、自分の罪を認め、自分の弱さを認め、神さまに助けを求めるのです。神さまに対して、白旗を振るのです。神さまに対して、降伏する、降参する。そして、神さまに自分を委ねていくのです。
 これに続いて、「もし、あなたがたのだれかが、自分はこの世で知恵のある者だと考えているなら、本当に知恵のある者となるために愚かな者になりなさい」(18節)とありました。ここには、二種類の知恵ある者のことが言われています。一つは、この世で知恵のある者です。そして、もう一つは本当に知恵のある者です。私たちはこの世において、知恵のある人と呼ばれたいし、そのように思われたいでしょう。しかし、この世で知恵のある者となりなさい、とは言われていません。本当に知恵のある者となるように、と勧められています。
 ところが、その勧めについて、不思議なことが言われています。本当に知恵のある者となるために、愚かな者になりなさい、と言うのです。何か言葉の矛盾のようにも思えますが、この後、19節には、「この世の知恵は、神の前では愚かなものだから」とあります。この世の知恵、人間の知恵のことです。それは神さまの前では愚かなもの。この世の知恵、人間の知恵、それよりはるかに神さまの知恵は賢いのだ、というのです。
 皆さんは聖書の通読をなさっているでしょうか?聖書そのものを一日何章ずつか読むとか、聖書の言葉について短く解説している本などを一緒に使って読んでいるとか、いろいろな方法があります。私は新年になって、前も何度か使っていましたが、榎本保郎先生の一日一章を聖書の通読後に読むようにしています。先週読んだ一日一章では創世記のノアの話(創世記6章から)が書かれていました。ノアという人は、洪水物語で知られている人です。神さまから、地上に不法がはびこっているから、地上を滅ぼすが、あなたは大きな箱舟を作りなさい、と言われ、神さまの言われたことを素直に聞いて、せっせと箱舟作りに励みました。聖書そのものには書いていないことですが、ノアが箱舟を作る作業をしている時、周りの人たちはどんなふうにノアのことを見ていたのだろう?と想像します。神さまが言われたからといって、何であんな大きな箱舟を作るのだろう?何と愚かな、バカなことをしているのだろう。そんなことも言われたのではないかと思います。私は神さまを信じて、神さまに従って生きるというのは、まさにこのノアのようなものだと思います。世の中から見ると、愚かなこと、バカなことのように見えるかもしれません。でも、ノアの話はご存じかと思いますが、箱舟を作った後、ノアはどうなったでしょうか?神さまはノアの信仰をかえりみ、あなたがたを決して滅ぼさない、と言われ、ノアとその家族、子孫のために契約を立ててくださいました(創世記9章)。ノアとその家族は神さまの恵み、守りを体験しました。私はノアの物語を読む度に励まされます。世においては愚かなことのように思えるかもしれませんが、神さまの言葉に従って生きる人生はどんなに恵みであるのか。そのことを私は信じていますし、信仰の先輩たちの歩みからも教えられています。

(むすび)
 今日の聖書の言葉に戻ります。21節からお読みします。「ですから、だれも人間を誇ってはなりません。すべては、あなたがたのものです。パウロもアポロもケファも、世界も生も死も、今起こっていることも将来起こることも。一切はあなたがたのもの、あなたがたはキリストのもの、キリストは神のものなのです」(21~23節)。
 本当に知恵ある者として生きるとは、神さまの知恵に生きる、神さまの言葉に生きるということです。私はパウロ派だ!私はアポロ派だ!などといって、分派争いをしていた人たちに向かって、そのパウロも、アポロも、みんな神さまがお立てになった人たちです。あなたがたもそうです。あなたがたはキリストのもの、神さまのものです。だから、お互いに妬みや争い、裁き合うことをやめて、手を携えて、神さまのために共に働こう。今日の説教題は「キリストのものとして生きる」としましたが、キリストのもの、神さまのものとされた私たちの生き方がここに示されているのです。

祈り
恵み深い主なる神さま
 本当に知恵ある者となるように、と語られていました。そのためには愚かな者になりなさい、とも語られていました。
 パウロは「愚か」ということについて、「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力」(1章18節)、「神は、宣教という愚かな手段によって信じる者を救おうと、お考えになった」(21節)とも語っています。
 罪のないお方が罪深い私たちのために十字架にかかり死なれた。その救いの出来事は、この世においては、愚かなことのように思えるかもしれませんが、これこそが神の知恵、力であり、救いです。この救いにあずかる方がありますように導いてください。
私たちの救い主イエス・キリストのみ名によってお祈りします。 アーメン

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