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【礼拝説教】2022年5月15日「私たちは神の神殿」

聖書―コリントの信徒への手紙一6章12~20節
(はじめに)
 教会とは何でしょうか?教会というと、まず、建物のことを考えるかもしれません。多くのキリスト教会は十字架が屋根の上に付いています。この教会、赤塚バプテスト教会も、キリスト教会の一つです。多くの教会がそうであるように、十字架が屋根の上に付いています。その十字架を見て、「ああ、あの建物はキリスト教会だ」と人々は知ります。
 聖書にも、教会という言葉が出てきます。でも、その場合、建物のことではなく、別の意味で書かれています。一つの聖書の言葉を読んでみます(エフェソ1章23節)。
1:23 教会はキリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場です。
 教会について、「教会はキリストの体」とありました。そして、「すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場」ともありました。実は、ここに集まっている皆さんは、教会です。皆さんが教会、そして、キリストの体です。「すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場」というのは、教会というところは、キリストのおられるところという意味です。
 もう一度、言います。私たちは教会。教会はキリストの体。この教会に、イエス・キリストがおられる。このことを心におぼえて、今日の聖書の言葉に聴いていきたいと思います。

(聖書から)
 最初の言葉、コリントの信徒への手紙一6章12節をお読みします。
6:12 「わたしには、すべてのことが許されている。」しかし、すべてのことが益になるわけではない。「わたしには、すべてのことが許されている。」しかし、わたしは何事にも支配されはしない。
 カギ括弧の中に書いてある言葉、それは、「わたしには、すべてのことが許されている」ということでした。何をしてもいいのだ。何でも許されているのだ。そういうことが言われています。
 このコリントの信徒への手紙を書いたパウロという人は、人々に福音を宣べ伝えました。福音というのは、良い知らせということです。ではどんな良い知らせを宣べ伝えたのでしょう。それは、私たちは、イエスさまを救い主と信じるだけで救われますよ、ということでした。私たちは生まれながらの罪人、神さまから離れ、自分勝手に、自分中心に生きてきた者。でも、イエスさまを信じたら、罪を赦され、自由に生きることができる。
 コリントの教会の人々の中にも、パウロが宣べ伝えた福音を信じて、「ああ、私は罪を赦され、自由になった!」という人たちがいました。その人たちがよく使った言葉が、このカギ括弧の中の言葉でした。「わたしには、すべてのことが許されている」。赦されているから、何をしてもいいのだ、罪を犯しても、何をしてもいいのだ、と考えて、自由気ままに、自分の思うままに生きる人たちがいたのです。
 そういう人たちに向かって、パウロはこう言いました。「しかし、すべてのことが益になるわけではない」、「しかし、わたしは何事にも支配されはしない」。パウロが言っていることは、あなたがたは確かにイエスさまによって罪を赦され、自由に生きる者とされた。しかし、神さまの前に、何が本当に良いことなのか、そうでないことなのか、そのことを正しく判断して生きていかなければ、あなたがたは、罪から自由にされたのに、再び、その罪に支配されてしまう、罪の虜になってしまう、とパウロは言ったのです。
 13節にはこのようなことが書かれています。
6:13 食物は腹のため、腹は食物のためにあるが、神はそのいずれをも滅ぼされます。体はみだらな行いのためではなく、主のためにあり、主は体のためにおられるのです。
 カギ括弧は付いていませんが、「食物は腹のため、腹は食物のためにある」。これもコリントの教会の人々の中のある人たちが言っていた言葉だそうです。ひと言で言うならば、食べたいときに好きなだけ食べたらいい!ということです。でもどうでしょうか?健康のことを考えると、そういうわけにはいきませんね。何が体に良いものか、そうじゃないか、をきちんと判断して、そして、好きなだけ食べてしまうのではなくて、適切な量を食べる。それが大事なことですね。
 「神はそのいずれをも滅ぼされます」とあります。食物も腹も滅ぼされる。それは永遠のことではない、やがては朽ち果てるものという意味です。私たちのこの体、肉体もそうです。いつの日か、無くなります。だからといって、どうせ、私の体は永遠ではないのだ、と考えて、欲望のままに好き勝手な生き方をするのではない、というのです。私たちの体は神さまが与えてくださったものであり、神さまは私たちの体を大切にしてくださっている、守ってくださっているから、とパウロは言います。
 私たちの体、肉体は永遠ではない。しかし、続いて、このようなことが書かれています。
6:14 神は、主を復活させ、また、その力によってわたしたちをも復活させてくださいます。6:15 あなたがたは、自分の体がキリストの体の一部だとは知らないのか。キリストの体の一部を娼婦の体の一部としてもよいのか。決してそうではない。6:16 娼婦と交わる者はその女と一つの体となる、ということを知らないのですか。「二人は一体となる」と言われています。6:17 しかし、主に結び付く者は主と一つの霊となるのです。
 神さまは、救い主であるイエス・キリストを復活させてくださいました。そして、私たちも復活させてくださいます。私たちの体は永遠ではないし、この地上での人生も永遠ではないけれど、そういう私たちがイエスさまを信じるなら、神さまは、私たちにイエスさまの復活の命、永遠の命を与えてくださる。それがここに書かれていることです。
 15節に「あなたがたは、自分の体がキリストの体の一部だとは知らないのか」とありました。私たちは、キリストの体の一部だというのです。17節では、「主に結び付く者は主と一つの霊となる」とありました。私たちは、キリストの体の一部であり、キリストと一つとされた。だから、淫らな行いに陥るようなことがあってはならない、というのです。18節にはこのように書かれています。
6:18 みだらな行いを避けなさい。人が犯す罪はすべて体の外にあります。しかし、みだらな行いをする者は、自分の体に対して罪を犯しているのです。
 ここに「人が犯す罪はすべて体の外にあります」と書いてあります。これもコリントの教会の中のある人たちが言っていた言葉だそうです。私たちは何もかも赦されているから、欲望のままに何でも行っていいのだ。なぜなら、それは私たちの体の外の話なのだから。「体の外の話」とは何かと言いますと、霊肉二元論という考えの人たちがコリントの教会の中にいて、人間は霊と肉体は別々の存在で、肉体が罪を犯しても、問題はない。霊は滅ぶことはない。肉体でどんな罪を犯しても、私たちの霊は生き残るから大丈夫なのだ、と言っていたのです。それに対して、パウロはこう言いました。「しかし、みだらな行いをする者は、自分の体に対して罪を犯しているのです」。あなたがたは霊と肉体は別々のことと考えているが、その考えは間違いです。あなたがたは、自分の体、神さまが与えてくださったこの体、キリストの体の一部であるこの体に対して、罪を犯すことになるのです、と言ったのです。
 彼らは、イエスさまの十字架による罪の赦しを信じたから、何でも赦されている。何をしても、どうせ、イエスさまが赦してくださるからいいのだ。そう言って、自分たちの行っていることを正当化する理由にしてしまったのです。そのことをパウロは大変悲しみ、憤り、イエスさまの罪の赦しに対して、私たちがどのように生きていったらよいのかを語ったのです。

(むすび)
6:19 知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。6:20 あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。だから、自分の体で神の栄光を現しなさい。
 「あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿」とパウロは語りました。私たちのこの体は聖霊が宿っている神さまの神殿。これは驚くべき言葉です。私の体は聖霊が宿っている神さまの神殿!私たちはそんなことは言えないと思うかもしれません。むしろ、罪にまみれたボロボロの館、そんなふうにしか思えないかもしれません。
 実は、パウロも私たちと同じようなことを考えていたようです。コリントの信徒への手紙二4章7節をお読みします。
4:7 ところで、わたしたちは、このような宝を土の器に納めています。この並外れて偉大な力が神のものであって、わたしたちから出たものでないことが明らかになるために。
 「宝」というのは、聖霊とか、イエスさまと考えたらよいと思います。それが「土の器」に納められている。土の器とは、私たちのことです。立派な金の器でもない、頑丈な鋼鉄の器でもない、すぐに壊れてしまうような土の器。それが私たちです。私たちはもろく、崩れてしまうようなものですが、その中に主がおられる、聖霊がおられる。だから、私たちは立っていける、歩んでいけるのです。
 「自分の体で神の栄光を現しなさい」。今日の聖書の最後の言葉です。この言葉は、立派に生きていきましょう!というメッセージに聞こえるかもしれません。しかし、私たちは残念ながら、土の器であり、なかなか立派に生きていくことはできません。そういう私たちですが、土の器である私たちの中におられるお方、その方に支えられて、助けられて何とか生きています!そのことをお伝えできたらよいのではないでしょうか。お祈りいたします。

祈り
恵み深い主なる神さま
  私たちは教会、キリストの体、私たちは神さまの聖霊がお住まいになる神さまの神殿。そのように聖書は語ります。私たちは、自分ではそのようには思えませんが、神さまが私たちをそのような者としてくださったことを感謝します。
 自分の罪も、赦しも、本当には知らず、本当の自由ではなく、放縦に走ってしまった人々に、パウロはそれでも愛を持って、神さまの恵みを語り続けました。私たちも神さまの恵みをもっともっと深く知ることができますように導いてください。
私たちの救い主イエス・キリストのみ名によってお祈りします。 アーメン

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