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【礼拝説教】2023年1月29日「私たちは主のもの」

2023年1月29日(日)(朝・夕)赤塚教会礼拝説教「私たちは主のもの」詩編24編1~10節

※お詫びとお知らせ
午前11時の回は機材の不具合のためにYouTubeのライブ配信ができませんでした。申し訳ありません。
そのため、本日午後4時からの礼拝をライブで配信いたします。また、その時間以降はいつでもYouTubeチャンネルで録画をご視聴できます。

聖書―詩編24編1~10節
(はじめに)
 お読みしました聖書の言葉は詩編24編です。詩編の言葉は、賛美であり、祈りです。詩編の言葉から、私たちはどのようにして神さまに祈るのか、神さまと語るのかを教えられます。詩編24編の言葉を味わっていきましょう。

(聖書から)
お読みしましたように、この詩編もダビデの詩編の一つです。この詩編の背景についてお話ししますと、ダビデがシオンをダビデの町として城壁を築き、そこに王宮を建てました。そして、神の箱、契約の箱とも言いますが、その箱の中には、契約の板、モーセがシナイ山で神から授けられた、十戒を記した2枚の石の板、モーセの兄である祭司アロンの杖、そして、マナの入った壺が入っていたそうです。その箱をオベド・エドムの家から運び入れました。その時の喜びの様子を歌ったものと言われます。
 まず、1、2節の言葉をお読みします。
24:1 【ダビデの詩。賛歌。】地とそこに満ちるもの/世界とそこに住むものは、主のもの。
24:2 主は、大海の上に地の基を置き/潮の流れの上に世界を築かれた。
イスラエルの王ダビデは、このように言ったというのです。「地とそこに満ちるもの/世界とそこに住むものは、主のもの。主は、大海の上に地の基を置き/潮の流れの上に世界を築かれた」。ここで言われていることは、すべてのものは神さまのものということです。私たちは、これは私のもの、あれも私のもの、と考えがちですが、聖書が教えているのは、すべてのものは神さまのものということです。
もう亡くなられましたが、ラジオやテレビなどで、広く放送伝道に携われた牧師先生で、羽鳥明という先生がおられました。その先生は、この箇所について、こうおっしゃっています。すべてのものは、神さまのもの。それは、すべてのものは、神さまに所有権があるということ。そして、神さまは、私たちには、そのすべてのものに使用権、管理権を与えてくださった、と言われます。
すべてのものは、神さまのものですが、私たちには、それを使用する権利、管理する権利を与えてくださった、ということです。管理ということで思い出す聖書の言葉があります。新約聖書・コリントの信徒への手紙一4章1、2節です。
4:1 こういうわけですから、人はわたしたちをキリストに仕える者、神の秘められた計画をゆだねられた管理者と考えるべきです。4:2 この場合、管理者に要求されるのは忠実であることです。
 私たちは、神さまの秘められた計画を委ねられた管理者とあります。神さまの秘められた計画というのは、神さまの救いのご計画ということです。その大切な計画を私たちに委ねてくださったのです。そして、そういう私たちというのは、「キリストに仕える者」であり、また、「管理者に要求されるのは忠実であること」とあります。私たちはキリストに仕える者です。そして、管理者とされた私たちはキリストに忠実であることが求められているのです。
 もう一つ、私たちが主のもの、神さまのものということから、思い出す聖書の言葉があります。その言葉を読んでみます。エフェソの信徒への手紙2章10節です。
2:10 なぜなら、わたしたちは神に造られたものであり、しかも、神が前もって準備してくださった善い業のために、キリスト・イエスにおいて造られたからです。わたしたちは、その善い業を行って歩むのです。
 「わたしたちは神に造られたもの」とあります。別の訳では、「私たちは神の作品」(口語訳、新改訳、聖書協会共同訳)と訳されています。私たちというのは、神さまのものとありましたように、自分が自分を所有しているわけではありません。私たちは、神さまに所有されている者です。そして、神さまから造られた者、神さまの作品です。私たちお互いが、みんな神さまに造られた者、神さまの作品なのです。ところが、このことを忘れた時、私たちは自分勝手なことをやり始めます。神さまを忘れて、離れて生きてしまうのです。しかし、ただいまお読みしました聖書には、私たちが造られた目的が書いてあります。「神が前もって準備してくださった善い業のために、キリスト・イエスにおいて造られた」、「わたしたちは、その善い業を行って歩むのです」。私たちが聖書を読むのは、神さまが準備してくださった善い業を知るためです。そして、知るだけではありません。その善い業を行って歩むように、と言われています。
 続いて、3~6節をお読みします。
24:3 どのような人が、主の山に上り/聖所に立つことができるのか。
24:4 それは、潔白な手と清い心をもつ人。むなしいものに魂を奪われることなく/欺くものによって誓うことをしない人。
24:5 主はそのような人を祝福し/救いの神は恵みをお与えになる。
24:6 それは主を求める人/ヤコブの神よ、御顔を尋ね求める人。〔セラ
 3節に「どのような人が、主の山に上り/聖所に立つことができるのか」とあります。これは、誰が神さまの前に立つことができるでしょうか、ということです。そして、その答えが4節には、このように語られています。「それは、潔白な手と清い心をもつ人。むなしいものに魂を奪われることなく/欺くものによって誓うことをしない人」。皆さん、どうでしょうか。誰が神さまの前に立つことができるでしょうか?4節の言葉を読んで、「それは私です!」と言うことができる人はいるでしょうか?私は、そのように言うことはできません。ですから、この詩編を読んでいきますと、4節で挫折してしまいそうです。
 5節には、「主はそのような人を祝福し/救いの神は恵みをお与えになる」とありますが、残念ながら、この私はそれには該当しない、と思わずにはおれません。そうしますと、私にとっては、失望の詩編になってしまうのですが、6節には、このようなことが語られています。「それは主を求める人/ヤコブの神よ、御顔を尋ね求める人」。
 主を求める人、主の御顔を尋ね求める人とあります。求める。この言葉で思い出す聖書の言葉があります。マタイによる福音書7章7、8節です。
7:7 「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。7:8 だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。
 この聖書の言葉はとても有名な言葉の一つです。そして、おそらく誤解されていることも多い言葉だと思います。求めなさい。そうすれば、与えられる。自分の求めていること、何でもかんでも求めてみなさい。そういうふうに理解されることがあります。でもこの後の11節には「あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださるにちがいない」とあります。天の父とは、神さまのことです。神さまが与えてくださる良い物、それは何でしょうか?私は神さまを信じて、もう随分長くなりますが、振り返ってみますと、自分が良いと思うものと神さまが良いと思われるものは必ずしも同じではないということを教えられることがあります。神さまは私の願いを聞いてくださらなかった。どうして、こんなことになるのか!そういうことも度々あります。けれども、後になって、そのことを通して、とても大切なことを教えられた、ということがあるのです。そのこと自体はその時には喜べないようなことであっても、後になってみて、その嫌なことだった、辛いことだったけれども、そのことがあったから今がある。そういうことがあります。神さまは万事を益としてくださる方(ローマ8章28節)です。主にあっては最善、そのことを信じていきましょう。
 さて、今日の聖書の言葉に戻りますが、「主を求める人」、「御顔を尋ね求める人」というのは、神さまご自身を求めるということです。4節のような人に自分は当てはまらないかもしれません。でも、6節では、神さまを求めることが教えられています。そして、この後、7節以下の言葉が語られます。
24:7 城門よ、頭を上げよ/とこしえの門よ、身を起こせ。栄光に輝く王が来られる。
24:8 栄光に輝く王とは誰か。強く雄々しい主、雄々しく戦われる主。
24:9 城門よ、頭を上げよ/とこしえの門よ、身を起こせ。栄光に輝く王が来られる。
24:10 栄光に輝く王とは誰か。万軍の主、主こそ栄光に輝く王。〔セラ
 ここに「栄光に輝く王」のことが語られています。「栄光に輝く王が来られる」。この言葉が繰り返されていますが、その王とは誰のことか、8節には「栄光に輝く王とは誰か。強く雄々しい主、雄々しく戦われる主」、10節には「栄光に輝く王とは誰か。万軍の主、主こそ栄光に輝く王」とあります。つまり、栄光に輝く王とは、神さまのことです。
 7、9節にも繰り返し、「城門よ、頭を上げよ/とこしえの門よ、身を起こせ」と語られています。聖書協会共同訳では「門よ、頭を上げよ/とこしえの扉よ、上がれ」となっています。「とこしえの門」というところが、「とこしえの扉」となっています。「とこしえ」というのは、永遠という意味ですが、ここでは、「とても古い」という意味だそうです。古い門、古い扉を開けなさい。それがここで言われていることです。
 門とか、扉とありましたが、これは何を言っているのでしょうか?それは、私たちの心の門のこと、私たちの心の扉のことです。それは古い門であり、古い扉なのです。私たちにとって、古いというのは、罪に支配された古さです。罪に支配された古い自分、その心の門を開けなさい、扉を開けなさい。そして、栄光に輝く王、神さまをお迎えしなさい、ということです。

(むすび)
 もう一度、6節の言葉に戻りましょう。「それは主を求める人/ヤコブの神よ、御顔を尋ね求める人」。ここで語られていることは、神さまを求めることと言いました。それに続く7節以下では、どのようにして、神さまを求めるのかが語られているのです。あなたの心の門、心の扉を開いて、神さまをお迎えしなさい、ということです。
 私たちが神さまをその心にお迎えしたら、4、5節の言葉が私たちの現実のものとなっていくのです。その言葉をもう一度、お読みします。「それは、潔白な手と清い心をもつ人。むなしいものに魂を奪われることなく/欺くものによって誓うことをしない人。主はそのような人を祝福し/救いの神は恵みをお与えになる」。
 私たちは自分で自分を救うことはできません。自分の力で罪に立ち向かうこともできません。それができるのは、私たちが神さまをお迎えすることによってです。私たちが自分の心に、人生に神さまをお迎えするならば、神さまが私たちを「潔白な手と清い心をもつ人。むなしいものに魂を奪われることなく/欺くものによって誓うことをしない人」としてくださるのです。神さまご自身を求めましょう。神さまをお迎えしましょう。そこから、私たちの新しい歩みが始まります。

祈り
恵み深い主なる神さま
 詩編24編をお読みしました。私たちの門、扉は神さまに向かって開いているでしょうか?神さまは私たちのために救い主をお送りくださいました。私たちを、私たちのためにおいでくださったイエスさまをその心に、人生にお迎えして歩む者としてください。また新たにイエスさまをお迎えする方がありますように。
私たちの救い主イエス・キリストのみ名によってお祈りします。 アーメン

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