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【礼拝説教】2022年6月26日「キリストを信じる者の生活」

2022年6月26日(日)(朝・夕)赤塚教会礼拝説教「キリストを信じる者の生活」コリントの信徒への手紙Ⅰ 7章25~40節

聖書―コリントの信徒への手紙一7章25~40節
(はじめに)
 お読みしましたコリントの信徒への手紙一の7章は、結婚のことや離婚、再婚のこと、割礼のこと、奴隷のことなど、コリントの教会の人たちの具体的な生活に対するアドバイスが語られている内容でした。この章を通して、私たちが教えられることは、キリストを信じる者の生活、キリストを信じる者はどのように生きていったらよいのか、ということです。そのためには、聖書の言葉、神さまの言葉を聴くことが大事です。先週もお話ししましたが、聖書が教会の正典とされたのは、そして、正典という意味はキリストを信じる者の信仰の基準、生活の基準だからです。

(聖書から)
 今日の聖書箇所でも、使徒パウロは、コリントの教会の様々な生活の中での問いを受けて、神さまの言葉から答えています。25節をお読みします。
7:25 未婚の人たちについて、わたしは主の指示を受けてはいませんが、主の憐れみにより信任を得ている者として、意見を述べます。
パウロは、自分は神さまの憐れみによって信任を得ている者、その立場から、意見を述べます、と言っています。私の言っていることは、神さまから信任を受けた者としての一つの意見です、と言っています。パウロは、私は神さまの言葉からこんなふうに聞いたけれども、あなたたちもそれぞれ神さまの言葉から聞いていくようにしなさい、と言っているのです。
ここでは、未婚の人たちに対して語っていることですが、26節にはこのようなことが語られています。
7:26 今危機が迫っている状態にあるので、こうするのがよいとわたしは考えます。つまり、人は現状にとどまっているのがよいのです。
 「人は現状にとどまっているのがよい」と言っています。なぜ、このようなことを言ったのかというと、26節の冒頭に「今危機が迫っている状態にある」と言っています。危機が迫っている、とは、どういうことでしょうか?どんな危機のことを言っているのでしょうか?これについては、29~31節を読んでみると分かります。
7:29 兄弟たち、わたしはこう言いたい。定められた時は迫っています。今からは、妻のある人はない人のように、7:30 泣く人は泣かない人のように、喜ぶ人は喜ばない人のように、物を買う人は持たない人のように、7:31 世の事にかかわっている人は、かかわりのない人のようにすべきです。この世の有様は過ぎ去るからです。
 先ほどは、「危機が迫っている状態」と言っていましたが、ここでは、「定められた時は迫っています」と言っています。そして、お読みしました最後のところでは「この世の有様は過ぎ去る」とあります。これらのことは何を言っているのかというと、終末、終わりの時、主の日ということです。主の日、それは主であるイエス・キリストが来られる日のことです。そのことについて聖書の中に幾つか書かれていますが、その一つの聖書の言葉をお読みします(一テサロニケ4章13~18節)。
4:13 兄弟たち、既に眠りについた人たちについては、希望を持たないほかの人々のように嘆き悲しまないために、ぜひ次のことを知っておいてほしい。4:14 イエスが死んで復活されたと、わたしたちは信じています。神は同じように、イエスを信じて眠りについた人たちをも、イエスと一緒に導き出してくださいます。4:15 主の言葉に基づいて次のことを伝えます。主が来られる日まで生き残るわたしたちが、眠りについた人たちより先になることは、決してありません。4:16 すなわち、合図の号令がかかり、大天使の声が聞こえて、神のラッパが鳴り響くと、主御自身が天から降って来られます。すると、キリストに結ばれて死んだ人たちが、まず最初に復活し、4:17 それから、わたしたち生き残っている者が、空中で主と出会うために、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられます。このようにして、わたしたちはいつまでも主と共にいることになります。4:18 ですから、今述べた言葉によって励まし合いなさい。
 使徒パウロは、いつもこのことを意識して日々を歩んでいました。いつでもイエスさまがおいでになってもよいように、目を覚ましていました。先週の祈祷会では、コロサイの信徒への手紙を学びましたが、その聖書箇所の中にも、目を覚ましているように(コロサイ4章2節)ということが言われていました。目を覚ましているように、というのは、ずっと眠らないで起きていなさい、ということではありません。信仰的な視点から言っています。ここで言われているのは、信仰の目を覚ましていなさい、ということです。いつもイエスさまを見上げて、イエスさまを見つめて歩んでいなさい、ということです。イエスさまがおいでになったら、真実が明らかになり、私たちは完全な救いをいただくことになります。そのことを信じて、私たちは主を待ち望んでいましょう。
 今お読みしました29~31節でいわれていることは、この世のことにのみ没頭してしまって、イエスさまのことをすっかり忘れたようにして、意識しないでいるようにして生活するようなことはないように、ということです。「この世の有様は過ぎ去るからです」とありました。これは、この世がすべてではない。この世の生活は永遠ではない、ということです。夫婦や家族もそうです。いつの日か、自分の愛する家族を天に送る日がやって来ます。もちろん、私たちは先に天に送った家族と天の国で再会できることを信じています。神さまは必ず、そのことを導いてくださると信じていますから、希望を持って歩んでいきたいと思いますが、この地上の営みは永遠ではありません。地上のことにのみ思いを、心を向けることで、神さまのことを忘れ、意識しないというようなことがないように。続く32~34節には、このようなことが語られています。
7:32 思い煩わないでほしい。独身の男は、どうすれば主に喜ばれるかと、主のことに心を遣いますが、7:33 結婚している男は、どうすれば妻に喜ばれるかと、世の事に心を遣い、7:34 心が二つに分かれてしまいます。独身の女や未婚の女は、体も霊も聖なる者になろうとして、主のことに心を遣いますが、結婚している女は、どうすれば夫に喜ばれるかと、世の事に心を遣います。
 「思い煩わないでほしい」という言葉から始まっていますが、例えば、独身の男性は、独身時代だと、どうすれば主に喜ばれるか、と主のことに心を遣います。けれども、結婚すると、どうすれば妻に喜ばれるか、と神さまのことと妻のことで、心が二つに分かれてしまう、というのです。この心が二つに分かれる、というのが、思い煩う、という意味です。心が二つに分かれる、ということについて、よく知られている聖書箇所があります。ルカによる福音書10章のマルタとマリアの姉妹の話(ルカ10章38~42節)です。この箇所は、マルタとマリアを比較して読まれることの多い箇所ですが、私はイエスさまがマルタのことを気にかけて語られたということに注目した方がよいと思います。イエスさまは、マルタを心配して、このように言われました。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している」(ルカ10章41節)。
 マルタが思い悩み、心を乱してしまった。この思い悩む、というのが、心が分かれてしまっている、ということです。あれもこれもしなくては・・・と思い悩むマルタをイエスさまが心配され、言われた言葉です。そして、さらにイエスさまはマルタに「必要なことはただ一つだけ」(ルカ10章42節)と言われました。マルタにとって、この言葉がどんなに大きな慰め、救いの言葉になったことでしょう。「必要なことはただ一つだけ」。その一つとは何でしょうか?皆さんはお分かりだと思います。マルタはイエスさまのこの言葉に耳を傾けて、必要なことはただ一つ、第一にすべきもの、そこを見つめていった時、思い悩みから解放されたと思います。
 今日の箇所に戻りますが、ここで言われているのは、神さまの方に心を向けられなくなるから、結婚してはいけない、ということが言われているのではありません。ただこれが私たちの現実です。また、結婚した相手を喜ばせる、大切にする、ということが、不信仰とか、信仰的ではない、ということでもありません。神さまが与えてくださった夫、妻、子供、家族を大切にすることは、むしろ、信仰的なことです。ただ心が二つに分かれることのないように気をつけなさい、と言っているのです。神さまと家族、どちらを選ぶか、ということではなくて、どちらも大切にするべきです。ただ考え方としては、神さまあっての家族ということです。神さまを抜きにしての家族ではないのです。神さまから与えられた家族というところから考えていく時、第一のものから考えていく時、マルタのように思い煩いから解放されていくのではないでしょうか。
 続いて35節をお読みします。
7:35 このようにわたしが言うのは、あなたがたのためを思ってのことで、決してあなたがたを束縛するためではなく、品位のある生活をさせて、ひたすら主に仕えさせるためなのです。
 「決してあなたがたを束縛するためではな」い。パウロが、信仰に基づいたアドバイスを語ってきたのは、あなたがたを束縛するためではない、と言っています。そして、パウロがこのことを語ってきた目的は「品位のある生活をさせて、ひたすら主に仕えさせるため」ということです。別の訳では、「主に対して良い姿を取り、良く思われるようになるため」(田川建三訳)となっていました。私たちの生活、日々の歩みがいつも主を見上げ、主に喜ばれる歩みを目指していくものであるように、そのためなのだ、というのです。

(むすび)
パウロは目先のことだけにとらわれないで、終末という視点から、すべてを見ていました。終わりから見る人生と言ったらよいでしょうか。最近、よく聞く言葉に「終活」ということがあります。昔は「しゅうかつ」というと、就職活動の「就活」でしたが、今は人生の終わりに備えての活動の「終活」です。イエスさまが再びおいでになる。その日に備えての活動も終末に備えての活動ということで「終活」ですが、終わりから人生を見ていくと、一日一日が大切な日々であることに気づかされます。キリストを信じる者にとっては、その一日一日は神さまが与えてくださった日々であることを知るわけですが、私たちにとって地上での終わりはすべての終わりではありません。そこから天の国の始まりです。私たちも終末の視点を持って歩んでまいりましょう。

祈り
恵み深い主なる神さま
 私たちはこの世において、地上において、多くのことに思い悩みながら生きている者です。それらのことで頭がいっぱいになり、あなたのことを忘れてしまうことがあります。まるであなたがいないかのようにして日々を過ごしていることがあります。
 しかし、あなたはどんな時も、変わることなく、共におられるお方です。パウロは思い煩わないでほしい、と言いました。イエスさまもマルタにあなたは思い悩み、心を乱している、と言われました。そして、必要なことはただ一つだけ、とも言われました。
 私たちはその必要なただ一つのこと、無くてならないただ一つのことによって生かされている者です。そこからすべてを見つめて生きる者にしてください。
私たちの救い主イエス・キリストのみ名によってお祈りします。 アーメン

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