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「主の嘆き、主の呻き」マタイによる福音書11章20~24節 2024/ 4/14 SUN.

「主の嘆き、主の呻き」マタイによる福音書11章20~24節 2024/ 4/14 SUN. 赤塚教会礼拝説教

聖書―マタイによる福音書11章20~24節
(はじめに)
今日お読みした聖書個所は、マタイによる福音書11章20節からになりますが、その前の個所15~19節の言葉について、先週の説教では触れませんでしたので、この箇所からお話ししていきたいと思います。

(聖書から)
 そういうわけで、まず、15節以下の聖書の言葉からお読みしますが、ここには、このようなことが書かれていました。
11:15 耳のある者は聞きなさい。
11:16 今の時代を何にたとえたらよいか。広場に座って、ほかの者にこう呼びかけている子供たちに似ている。
11:17 『笛を吹いたのに、/踊ってくれなかった。葬式の歌をうたったのに、/悲しんでくれなかった。』
11:18 ヨハネが来て、食べも飲みもしないでいると、『あれは悪霊に取りつかれている』と言い、11:19 人の子が来て、飲み食いすると、『見ろ、大食漢で大酒飲みだ。徴税人や罪人の仲間だ』と言う。しかし、知恵の正しさは、その働きによって証明される。」
 イエスさまが、「今の時代」と言われたのは、今の時代の人々ということです。17節で言われていることは、笛を吹いたのに、踊ってくれなかった。葬式の歌を歌ったのに、悲しんでくれなかった、とありましたが、これはこの当時の子供たちの遊びで、笛を吹いたのに・・・、というのは、結婚式ごっこのこと、葬式の歌を歌ったのに・・・、というのは、葬式ごっこのことです。結婚式ごっこをしようとしても、みんなは踊ってくれない、葬式ごっこをしようとしても、みんなは泣いてくれない・・・。つまり、みんなが遊びに加わってくれない。そういって、愚痴をこぼしている、不平を言っている。それが、今の時代の人々だ、というのです。イエスさまは、二千年前の人たちのことを言っていますが、今を生きる私たちはどうでしょうか?愚痴や不平ばかりというようなことはないでしょうか?
 続く18節では、バプテスマのヨハネが、神さまに自分の全生活をささげるという信仰的な動機から禁欲的な生活をしていたことについて、人々は、ヨハネは悪霊に憑かれているからそんな生活をしているのだ、と言って批判していました。一方、19節では、イエスさまが、ユダヤの人たちの中で差別されている人たち、虐げられている人たちと一緒に食事をして、彼らの友となられたことを見て、人々は、イエスという男はああいう連中と親しくしている罪人の仲間で、とんでもない男だ、と批判していました。
しかし、イエスさまは、このようにも言われました。「しかし、知恵の正しさは、その働きによって証明される」。「知恵」というのは、ここではイエスさまのことを言っています。あなたがたは、イエスさまのことを批判し、受け入れないでいるが、イエスさまを受け入れて、イエスさまに従っていくなら、その人の生き方を通して、イエスさまが真実な方であることが明らかにされる、というのです。これは、私たちにとって、大きな励ましです。イエスさまに従って生きること、それは決して無駄なことではないのです。「知恵の正しさは、その働きによって証明される」。必ず、実を結ぶことになると言われているのです。
 先週は一人の方の信仰告白とバプテスマ式がありました。その信仰告白の中で、子供時代、お祖母さまが入院している病院にお見舞いに行ったら、お体のよくないお祖母さまが、他の患者さんのお世話をしていた。その姿を見て、お祖母さまの信じている神さまとは、いったい、どんな方なのだろう?お祖母さまの信仰がその生き方に表れて、それが大きなきっかけとなって、やがて、自分が信仰へと導かれた、というお話しでした。私たちが、神さまに従って生きるなら、自分自身が神さまに養われ、変えられていくという恵みにあずかりますが、そればかりか、周りの人々にも、福音の種が蒔かれていくのです。
 さて、続いて今日の聖書個所から聴いていきたいと思います。
11:20 それからイエスは、数多くの奇跡の行われた町々が悔い改めなかったので、叱り始められた。
 イエスさまは、町や村を巡って、そこで数多くの奇跡を行われました。それは、具体的には、先週お読みした5節に書いてあるようなことでした。「目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている」。イエスさまは、人々に癒しをされ、福音が告げ知らされた、ということです。ところが、人々はそれでも悔い改めなかった、神さまに立ち返ることをしなかったというのです。
 これに続いて、イエスさまは、このようなことを言われました。
11:21 「コラジン、お前は不幸だ。ベトサイダ、お前は不幸だ。お前たちのところで行われた奇跡が、ティルスやシドンで行われていれば、これらの町はとうの昔に粗布をまとい、灰をかぶって悔い改めたにちがいない。11:22 しかし、言っておく。裁きの日にはティルスやシドンの方が、お前たちよりまだ軽い罰で済む。
11:23 また、カファルナウム、お前は、/天にまで上げられるとでも思っているのか。陰府にまで落とされるのだ。お前のところでなされた奇跡が、ソドムで行われていれば、あの町は今日まで無事だったにちがいない。11:24 しかし、言っておく。裁きの日にはソドムの地の方が、お前よりまだ軽い罰で済むのである。」
 イエスさまが語られた言葉の中に、六つの町の名前が出てきました。コラジン、ベトサイダ、そして、カファルナウム。これは、イエスさまが数多くの奇跡を行った町の名前です。それに対して、ティルス、シドン、ソドムというのは、旧約聖書に出てくる町の名前です。真の神さまを信じない、異教の神の町、不品行、不道徳の町と言われる町の名前です。おそらく、当時のユダヤの人たちは、ティルス、シドン、ソドムと聞くと、「あれは、罪深い町だ」と言っていたのでしょう。
 ところが、お読みしたように、イエスさまは、「裁きの日にはティルスやシドンの方が、お前たちよりまだ軽い罰で済む」、「裁きの日にはソドムの地の方が、お前よりまだ軽い罰で済む」と言っておられるのです。つまり、あなたがたが罪にまみれた、不品行の、不道徳の町と言っているその町の方が、あなたがたよりも、まだ軽い罰で済む、というのです。これは、どういうことでしょうか?あなたがたの方が、それらの町よりも、もっと不品行で、もっと不道徳で、もっと罪深い、ということでしょうか?
 私たちは、テレビや新聞などで、毎日のように、犯罪の記事を読んだり、聞いたりします。また戦争のことを読んだり、聞いたりします。すると、私は、あんな事件を起こした人間とは違う。私の国は、あんな戦争をしている国とは違う。そのように考えて、あの人よりは、私の方が罪深くない。あの国よりも、私の国の方が罪深くない。そういうふうに考えてしまうようなことはないでしょうか?そして、まるで自分には罪がないように、自分が正しい人間であるかのように考えてしまう・・・。
 ヨハネの手紙一1章8~10節には、このようなことが書かれています。
1:8 自分に罪がないと言うなら、自らを欺いており、真理はわたしたちの内にありません。1:9 自分の罪を公に言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます。1:10 罪を犯したことがないと言うなら、それは神を偽り者とすることであり、神の言葉はわたしたちの内にありません。
 自分には罪がない。自分は罪を犯したことがない。それは、自分を欺いていることだ。神さまを偽り者とすることだ、というのです。自分を欺く。それは、自分には罪があるのに、罪がない、と噓をついている。でもそれだけではないと思います。自分の罪に気づいていない。なぜ、気づいていないのか、というと、神さまの前に立つことをしないからです。神さまを忘れ、無視し、人との間だけで生きている。先ほどもお話ししたように、人と比べて、自分の方がましだとか、考える。そうすると、私たちは、自分の罪が分からなくなる、見えなくなるのです。罪というのは、神さまの前に立たなければ、分かりません。ある方はこう言っています。十字架の光に照らされて、そこで初めて、自分の罪が分かる、自分が罪人だということが分かる。聖書が示す罪とは、根本的には、神さまに対する罪のことです。

(むすび)
 イエスさまは、自分が巡ってきた三つの町に向かって、「コラジン、お前は不幸だ。ベトサイダ、お前は不幸だ」、「カファルナウム、お前は・・・」と言われました。「不幸だ」という言葉、口語訳では、「わざわいだ」という言葉で訳されています。不幸だ、わざわいだ、などというと、悔い改めない町、自分の罪を認めない、気づかない町に対して、イエスさまは、何か呪いの言葉を語っておられるのだろうか、と思うかもしれません。しかし、不幸だ、とか、わざわいだ、と訳されている言葉、これは、イエスさまの嘆きの言葉、呻きの言葉なのです。ですから、別な訳では、「ああ」(新改訳)という言葉、感嘆詞、感動詞で訳されています。イエスさまは悔い改めない、罪を罪とも認めない町のために、人々のために嘆いておられる、呻いておられるのです。
 イエスさまが嘆かれた、呻かれた、と言いましたが、聖書の中で、神さまの呻きについて書いてある箇所があります。その箇所をお読みします(ローマ8章26節)。
8:26 同様に、“霊”も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、“霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。
 ここに出てくる「“霊”」というのは、神さまの霊、聖霊のことです。聖霊の呻き、神さまの呻きが語られています。「弱いわたしたち」。自分の罪に気づくこともできず、自分の罪を認めることもできない弱い私たち。そういう私たちは、どう祈るべきか分からないのです。しかし、そういう私たちのために、聖霊自ら、神さま自ら、言葉に表せない呻きをもって執り成してくださる、私たちのために祈ってくださるというのです。
 神さま自ら執り成してくださる。私たちは、イエスさまの執り成しの祈りを受難週の時に読みました。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」(ルカ23章34節)。自分が何をしているのか知らない。自分の罪を知らない、自分が罪人であることを知らない。そういう私たちのために、主は十字架におかかりになりました。私たちは、イエスさまが十字架におかかりになったおかげで、罪から救われ、神さまの赦しに生きる者とされました。主がこの私のために、嘆き、呻き、執り成してくださった。この救いの恵みをいつまでも忘れないでいたいと思います。

祈り
恵み深い私たちの主なる神さま
 主は、悔い改めない町、そこに住む人々に語りかけました。自分が神さまの前に一人の罪人であることに気づくこと、そして、悔い改めることをお示しになりました。
 コラジン、ベトサイダ、カファルナウムの人たちが、私たちは、ティルスやシドン、ソドムほど、悪くない、罪はない、と考えたように、私たちも、人の罪や悪を知る時、自分はあの人たちよりも、悪くない、罪はない、と考えてしまうことがあります。
 しかし、主の十字架の前に立つ時、誰一人罪のない者はいません。主の十字架の光から、すべてのことを知る者、見る者としてください。そして、赦された罪人としての歩みを導いてください。
 私たちの救い主イエス・キリストのみ名によってお祈りします。 アーメン

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