【礼拝説教】2022年7月17日「唯一の神、唯一の主を信じる」
聖書―コリントの信徒への手紙一8章1~6節
(はじめに)
お読みしていますコリントの信徒への手紙一では、信仰生活の具体的なことについて、つまり、私たちの生活の中でイエスさまを主と信じて歩むということはどういうことであるのかを教えています。読んでいくと、お分かりになると思いますが、この手紙の書かれた時代、場所など、私たちとは背景が異なりますので、ここに書かれていることをそのまま今の私たちに適用させること、当てはめることはできませんが、ここで語られている趣旨、中心的なメッセージを聴き取っていくことは大切なことです。
(聖書から)
今日お読みしました聖書箇所には、私たちの教会で使用している新共同訳聖書では、「偶像に供えられた肉」という小見出しが付けられています。8章全体のテーマとなっていますが、今日はその前半の部分をお読みしました。「偶像に供えられた肉」と聞いても、私たちは理解しにくいと思いますので、そのことから、お話ししますと、この手紙はパウロがコリントの教会の人たちに書き送った手紙です。このコリントという町はギリシアの都市です。「偶像」とか、「神々」という言葉が出てきましたように、多くの偶像、神々の神殿がありました。神殿の祭儀、お祭りでは動物を犠牲にしてお供え物としました。そして、そこで使われた動物の肉は、その祭儀を司った祭司のものになり、また祭儀に集まった人たちが食べたり、残ったものは町の市場で売られました。「偶像に供えられた肉」というのは、そういう意味で言われているのです。
さて、町の市場で売られていた肉、偶像に供えられていた肉について、コリントの教会の人たちはどうしたかということですが、コリントの教会には、ユダヤ人の信徒がおり、またユダヤ人ではない異邦人の信徒がいました。ユダヤ人の信徒は、異教の神々に供えたものということ、その肉の調理の仕方が律法から外れているということ、肉と血を一緒には食べないということで、偶像に供えられた肉は一切食べませんでした。一方、異邦人の信徒は自分たちがキリストを信じる前には何も問題なく、食べていたのですが、キリストを信じてからは、異教の神々に供えた肉を食べてよいのだろうか?と悩む人たちが出てきました。
私たちは、偶像に供えた肉を食べるか、食べないか、という問題に出くわすようなことはないかもしれませんが、例えば、他の宗教で行われる葬儀や結婚式などでは、クリスチャンとしてどういう態度、振る舞いをしたらよいのか?ということで迷われたり、悩まれたりする方があると思います。私がよく尋ねられるのは、葬儀のお焼香のことです。これらのことは教会によって、牧師によって、いろいろな理解があると思います。私は、それぞれの信仰において、考えて判断していただくように、とお話ししますが、もっと具体的なガイドラインでも作ってもらった方が、と迷ったり、悩んだりしなくてすむと言われたこともあります。
他の宗教との関わり、関係ということで言いますと、教会で葬儀を挙げるとき、もちろん、キリスト教式の葬儀、内容としては礼拝そのものですが、聖書の言葉が語られ、賛美歌が歌われます。他の宗教の方が葬儀に参列してくださる時、ご自分が他の宗教の信仰を持っておられ、賛美歌を歌うことは受け入れられない、という考えの方がおられるかもしれません。私の方も、強いてお勧めはしませんが、賛美歌を歌ってくださり、聖書の言葉に耳を傾けてくださる姿を見ると、大変嬉しく、ありがたく思います。また私も他の宗教の葬儀などに参列するときには、まず、失礼があってはならないということに気をつけます。そして、ご遺族の気持ちに寄り添うことができたら、との思いで私の信じる真の神さまへの祈りの心を持つようにしています。
1節をお読みします。
8:1 偶像に供えられた肉について言えば、「我々は皆、知識を持っている」ということは確かです。ただ、知識は人を高ぶらせるが、愛は造り上げる。
「偶像に供えられた肉について言えば」という言葉から始まっていますが、パウロに対して、偶像に供えられた肉を食べてもよいのか、よくないのか、という相談があったことが分かります。パウロはこう言っています。「『我々は皆、知識を持っている』ということは確かです」。この「我々は皆、知識を持っている」という部分を括弧付きにしているのは、誰かの言葉を引用していることを意味します。自分たちは知識がある。そのことを主張し、誇る人たちがいたようです。その言葉をパウロはあえて引用して、このように語ります。「知識は人を高ぶらせるが、愛は造り上げる」。
ところで、ここで「知識」というのは、何でしょうか?それは4節以下に書かれています。4~6節をお読みします。
8:4 そこで、偶像に供えられた肉を食べることについてですが、世の中に偶像の神などはなく、また、唯一の神以外にいかなる神もいないことを、わたしたちは知っています。8:5 現に多くの神々、多くの主がいると思われているように、たとえ天や地に神々と呼ばれるものがいても、8:6 わたしたちにとっては、唯一の神、父である神がおられ、万物はこの神から出、わたしたちはこの神へ帰って行くのです。また、唯一の主、イエス・キリストがおられ、万物はこの主によって存在し、わたしたちもこの主によって存在しているのです。
ここで言われていることは、偶像に供えられた肉を食べてよいのか、悪いのか、ということで心配する必要はない、ということです。なぜなら、偶像の神などは存在しない。だから、気にしないで食べたらよいのだ、ということです。
しかし、私は知識がある。私は偶像に供えた肉については、偶像など実在しないものだと知っているから、何も気にしないで食べている。このことを気にするなんてナンセンスだ。そうやって、偶像に供えた肉について気にしている人たちを裁いているならば、ここに言われている「知識は人を高ぶらせる」ということになります。偶像に供えた肉を食べてよいのかよくないのか、と迷い悩む人たちに対して、そんなことも分からないのか、と裁き、見下すのではなく、一緒に考えていく。そういう姿勢が大事なことだと思います。
「愛は造り上げる」とありました。知識は大事です。しかし、愛の欠けた知識はその人を高ぶらせ、他者を裁き、見下すのです。愛に根ざした知識が大事です。愛というのは「造り上げる」ものなのです。愛が人を造り上げます。愛が教会を造り上げます。
2節にはこのようなことが語られていました。
8:2 自分は何か知っていると思う人がいたら、その人は、知らねばならぬことをまだ知らないのです。
哲学者のソクラテスという人は、「無知の知」ということを語りました。「無知の知」というのは、自分がいかに無知であるか、知らないことがあるかを知るということです。自分がすべてのことを知っていると思うなら、それは傲慢であり、実際には知らないこともあるはずですから、嘘になります。ですから、まだまだ知らないことだらけの自分なのだ、ということを自覚することが大切です。この2節の言葉もそのことを言っているように思えますが、ここで気になる言葉があります。「知らねばならぬことをまだ知らない」。この「知らねばならないこと」とは何でしょうか?そのことについては、3節の言葉が示しています。
8:3 しかし、神を愛する人がいれば、その人は神に知られているのです。
私たちが「知らねばならぬこと」、それは私たちが神さまに知られていることです。そして、神さまに知られているとは、神さまに愛されているということです。繰り返しますが、私たちがまず、知らなければならないこと、それは自分が神さまに知られている、愛されていることです。そのことを知るとき、私たちも神さまを愛する者となっていくのです。このようにして、私という人間が神さまの愛によって造り上げられていくのです。
(むすび)
「知識は人を高ぶらせるが、愛は造り上げる」。ここで言われていた「知識」というのは、一般的な知識のことではなく、神さまを知る知識であるとか、信仰の知識ということです。しかし、その知識をどれだけ得たとしても、愛の欠けた知識はその人を高ぶらせ、その人を造り上げることをしないのです。自分は熱心に信仰生活を送ってきた。聖書の勉強もしてきた。それなのに、どうも信仰が成長していないようだ。心に喜びがない。なぜだろうか?私たちが知識以上に知らなければならないのは、愛です、神さまの愛です。この愛を知る。私が神さまに知られている、神さまに愛されている。このことを知り、自分に与えられた恵みとしてしっかりと受け止めていく。そして、神さまの愛に対して応答していく、応えていく。そこから、自分が造り上げられていく、成長していく。お互いが造り上げられていく、成長していくのです。そのようにして、唯一の神、唯一の主を表す群れとして教会は歩んでいくのです。
祈り
恵み深い主なる神さま
知識を誇る私たちです。聖書の知識さえも誇ってしまいます。しかし、その聖書の言葉が語ります。「知識は人を高ぶらせるが、愛は造り上げる」。
「知らねばならぬこと」とありました。イエスさまが「必要なことはただ一つだけ」(ルカ10章42節)と語られたことを思い出します。
神さまに知られている私たちです。神さまに愛されている私たちです。その愛を受け止めて、喜んで、私たちも神さまを愛する者として、人を愛する者として歩ませてください。
私たちの救い主イエス・キリストのみ名によってお祈りします。 アーメン
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