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【礼拝説教】2022年8月21日「与えられた権利」

聖書―コリントの信徒への手紙一9章1~18節
(はじめに)
 お読みしましたコリントの信徒への手紙一9章で、この手紙を書いたパウロは自分のことをこのように言っています。
9:1 わたしは自由な者ではないか。使徒ではないか。わたしたちの主イエスを見たではないか。あなたがたは、主のためにわたしが働いて得た成果ではないか。
 パウロは自分のことを「自由な者」、「使徒」と言っています。使徒というのは、使者とか大使という言葉でも訳すことができる言葉です。何か特別な使命を受けて派遣された者ということです。東京には、世界中の国々の大使館があります。それぞれの国の大使の方々は国から使命を受けて派遣され、日本で働きをしているわけです。その大使と同じ意味です。パウロは自分のことを神さまから派遣された大使であると言っています。
 この9章でパウロが自分のことをキリストの使徒、キリストから派遣された者と言ったのは、この手紙の受け取り手であるコリントの教会の中に、パウロのことをキリストの使徒ではない、と言っている人たちがいたからです。それであえてパウロは、私はキリストの使徒なのだ、と言ったのです。同じ1節には、「わたしたちの主イエスを見たではないか」と言っています。イエス・キリストを見た。これはパウロの回心、キリストに出会って回心した出来事のことを言っています。
 パウロはキリストに出会い、キリストを信じる前は、熱心なキリスト教の迫害者でした。神さまが私たちのところにお送りくださったキリストを認めておらず、キリストを信じる人たちを迫害することが神さまに対する正しい信仰だ、と考えていました。パウロはキリストを信じる人たちを迫害するために、ダマスコというところに向かう途中、復活されたキリストに出会ったことが使徒言行録に書かれています(使徒9章1~19節参照)。
 「わたしたちの主イエスを見た」。それはイエス・キリストと出会った、ということです。ここにおいでになっている皆さんはいかがでしょうか?パウロと同じように、私は主イエスを見た、と言うことができるでしょうか?イエス・キリストをこの目で見たことはないかもしれません。しかし、目には見えませんけれど、イエス・キリストとの出会い、人格的な出会いを体験されたのではないでしょうか。それがイエスを見た、ということです。

(聖書から)
 お読みしました聖書の言葉、1節にはこのようなことも書かれていました。「わたしは自由な者ではないか」。キリストの使徒というのは、自由な者なのです。その自由というのは、罪からの自由です。罪に囚われていた、支配されていた者がキリストによって自由にされた。使徒というのは、大使のことであると言いました。イエス・キリストを信じる者はみなキリストによって遣わされた大使なのです。そして、罪から自由にされた。私たち一人一人がキリストの使徒、キリストから遣わされた大使、そして、罪から自由にされた者なのです。
 パウロはコリントの教会の人たちのことをこのように言っています。「あなたがたは、主のためにわたしが働いて得た成果ではないか」。2節でもこのようにパウロは言っています。「あなたがたは主に結ばれており、わたしが使徒であることの生きた証拠」。パウロがキリストの福音を宣べ伝えたことによって、キリストを信じた人たちだ、というのです。そのあなたがたの存在そのものが、私がキリストの使徒である証拠なのだ、と言っているのです。
 キリストの使徒であるパウロは、使徒としての権利ということで3節以下では、その権利について語っています。4~14節にその内容が語られていますが、福音を人々に宣べ伝えるという働き、その働きに対する権利としての報酬について言われています。パウロのことを、パウロはキリストの使徒ではない、と批判した人たちの中には、パウロは使徒ではないから、報酬を与える必要はない、と言っている人たちがいたようです。またパウロはお金のために福音宣教の働きをしているのだ、と言っている人たちもいたようです。
 そういう批判をパウロは聞いていました。それに答える形で、書いているのが今日お読みしました聖書の箇所です。パウロはまず、働き人にはその生活を支えるために報酬を与えるべきだ。それが使徒としての権利だ、と言いました。この権利について、パウロが自分勝手に言っていることではないことを14節で示しています。
9:14 主は、福音を宣べ伝える人たちには福音によって生活の資を得るようにと、指示されました。
 これは主が言われたことであると言っています。そのように言っているにも関わらず、パウロは12節では、このようなことを言っています。
9:12 他の人たちが、あなたがたに対するこの権利を持っているとすれば、わたしたちはなおさらそうではありませんか。しかし、わたしたちはこの権利を用いませんでした。かえってキリストの福音を少しでも妨げてはならないと、すべてを耐え忍んでいます。
 パウロ自身はこの権利を用いなかった、というのです。なぜかというと、「かえってキリストの福音を少しでも妨げてはならないと、すべてを耐え忍んでいます」とあります。先ほどもお話ししましたが、コリントの教会の中に、パウロをキリストの使徒と認めない人たちがいました。その人たちにとっては、パウロがこの権利、生活の資(報酬)を得るなら、それが躓きとなる。そこで自分はあえてこの権利を用いなかった。使徒として受けるべき権利、報酬を受けることをしなかった、というのです。
 今日の箇所の前に書かれています8章では、偶像に供えた肉の問題が書かれていました。そのことについて、コリントの教会の中で二つの異なった理解をする人たちがいました。一つの理解は、偶像に供えた肉を食べることは何も信仰の問題ではないから構わない、と考える人たちでした。もう一つの理解は、偶像に供えた肉を食べることは信仰の問題であり、食べてはならない、と考える人たちでした。特に食べてはならない、と考える人たちというのは、キリストを信じる前は偶像礼拝を熱心に行っていた人たちだったようで、偶像に供えた肉を食べることでキリストを信じる前の生き方に戻ってしまうのではないか?と心配したようです。このことに対して、パウロは偶像に供えた肉を食べても、それが偶像礼拝ということにはならず、問題はないが、このことで悩み、躓いてしまう人たちがいるなら、私は偶像に供えた肉を食べることはしません(8章13節)と言ったのです。それと同じように、パウロは自分が使徒の権利として生活の資(報酬)を得ることが、ある人たちにとって躓きとなるなら、私はその権利を用いることはしません、と言ったのです。しかし、パウロが最も言いたかったこと、伝えたかったことはその後に書かれていることでした。それが15節以下に書かれていることです。
9:15 しかし、わたしはこの権利を何一つ利用したことはありません。こう書いたのは、自分もその権利を利用したいからではない。それくらいなら、死んだ方がましです……。だれも、わたしのこの誇りを無意味なものにしてはならない。9:16 もっとも、わたしが福音を告げ知らせても、それはわたしの誇りにはなりません。そうせずにはいられないことだからです。福音を告げ知らせないなら、わたしは不幸なのです。9:17 自分からそうしているなら、報酬を得るでしょう。しかし、強いられてするなら、それは、ゆだねられている務めなのです。9:18 では、わたしの報酬とは何でしょうか。それは、福音を告げ知らせるときにそれを無報酬で伝え、福音を伝えるわたしが当然持っている権利を用いないということです。
 ここで言われていることですが、キーワードとして、二つの言葉、「わたしの誇り」(15、16節)、「わたしの報酬」(18節)という言葉から考えてみましょう。
 「わたしの誇り」、つまり、パウロの誇りについて、ここに語られています。パウロの誇り、それは17節にあります「ゆだねられている務め」ということです。パウロは誰からその務めを委ねられたのでしょうか?神さまから委ねられたのです。神さまから務めを委ねられた。これが誇りなのだ、と言っているのです。
 次に、パウロの報酬。それは18節にあります「福音を告げ知らせる」ということです。このことについて、ここに「福音を告げ知らせるときにそれを無報酬で伝え、福音を伝えるわたしが当然持っている権利を用いない」とあります。言われていることはパウロの報酬というのは、福音を告げ知らせる、福音を伝える。このことこそが自分に与えられた報酬なのだ、ということです。

(むすび)
 リビングバイブルというとても聖書の言葉を分かりやすく意訳した聖書があります。そのリビングバイブルで今日の箇所を読んでみます。15節と18節をお読みします。
15節の途中からお読みします。「実際、無報酬で主のために働くという誇りを失うくらいなら、私は飢え死にしたほうがましです」。ここに「主のために働くという誇り」とあります。そして、18節をお読みします。「このような状況で、私の受ける報酬とはどんなものでしょう。だれにも負担をかけず、自分の権利を少しも主張せずに、福音を宣べ伝えることから来る特別の喜び、これこそ私の報酬なのです」。ここには「福音を宣べ伝えることから来る特別の喜び」とあります。
「主のために働くという誇り」、そして、「福音を宣べ伝えることから来る特別の喜び」。これこそはパウロが最も言いたかったことであり、キリストの使徒に与えられた最大、最高の権利だったのです。私たちもこの誇り、この喜びを持って、キリストの使徒としての歩みを続けていきたいと思います。

祈り
恵み深い主なる神さま
 キリスト者を迫害することに使命を感じていたパウロがダマスコ途上で復活の主に出会い、自分は本当には何も見えていなかった、分かっていなかったことに気づかされ、回心をしました。心の目が開かれ、キリストと共に生きることこそが幸いの人生であることを知らされました。
そのパウロは何を誇りとし、何を喜びとしていたでしょうか。パウロにとっての誇り、それは神さまから福音宣教という大切な働きを委ねられたことでした。パウロにとっての喜び、それは福音宣教という働きから来る喜びでした。私たちもパウロが誇りとし、喜びとしたことが私たちの誇り、喜びとなりますように。
私たちの救い主イエス・キリストのみ名によってお祈りします。 アーメン

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