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【礼拝説教】2022年9月4日「和解すること」

聖書―マタイによる福音書5章21~26節
(はじめに)
 聖書の中に、律法というものが出てきます。掟とか戒めとも言われるものです。それは神さまが私たち人間に与えたものだ、とも聖書に書いてあります。律法、掟、戒めと聞くと、どれも何かいかめしいイメージがあります。イエスさまを信じたら、クリスチャンになったら、自由に生きていくことができなくなるのでは?律法というものに縛られて、窮屈な人生を生きることになるのでは?そのように心配される方があるかもしれません。
 私は17歳の時にイエスさまを信じて、信仰生活を歩んできました。窮屈な人生だったか?と問われますと、そんなふうには思っていません。私にとっては、律法というのは、聖書のことと理解しています。神さまが、私たち人間が生きていくために必要なルール、また道しるべとして与えてくださったと考えています。私たちがどのように生きていったらよいのか。そのことを教えてくれる道しるべです。詩編には、律法についてこのようなことが書かれています(詩編119編105節)。
119:105 あなたの御言葉は、わたしの道の光/わたしの歩みを照らす灯。
 イエスさまはこの律法について、このように言われました。
5:17 「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。
 イエスさまという方は、律法を完成するために、この世においでになった、と言われました。律法を完成するとはどういうことでしょうか?そんなことを考えながら、今日の聖書の箇所に聴いていきたいと思います。

(聖書から)
 イエスさまは、律法の言葉を一つ引用されました。読んでみます。
5:21 「あなたがたも聞いているとおり、昔の人は『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。
 殺してはならない、という律法の教えです。この殺してはならない、という教えはキリストを信じている人でなくとも、ほとんどの人がその通りだ、と思うのではないでしょうか。律法の最も基本の部分について書いてあるのが十戒です。旧約聖書・出エジプト記20章13節には「殺してはならない」という教えが書かれています。他にもまことの神さま以外の神があってはならない、とか、父と母を敬いなさい、盗んではならない、などの教えが書かれています。
 イエスさまはこの律法の教えを引用され、続いてこのように語られました。
5:22 しかし、わたしは言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる。
 「殺してはならない」という律法の教えがあるとイエスさまは言われましたが、それに続いて、「しかし、わたしは言っておく」とあります。律法では「殺してはならない」と言われているが、私は「兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける」と言っています。これがこの言葉の後、具体的に「兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され」、「『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる」とあります。
 「殺してはならない」というと、実際に殺すという行為のことが言われているように思います。しかし、イエスさまが言われた「兄弟に腹を立てる者」ということから示されることは、心の中で殺す、ということです。私たちはどうでしょうか?何か大きな喧嘩をする。すると、「あの人が私の目の前からいなくなればよいのに!」と思ってしまう。これは心の中でその人を殺すということになるのです。
 イエスさまは心の中の罪も問われるのだ、と言われるのです。最高法院に引き渡される。火の地獄に投げ込まれる。このような比喩的な言い方をされて、心の中で殺すということは、決して軽いものではない。むしろ、神さまの前には重いことなのだ、と言われるのです。
 イエスさまはこのように、厳しく語られます。しかし、そこで終わりません。では私たちはどのようにしたらよいのか?そのことを語られるのです。
5:23 だから、あなたが祭壇に供え物を献げようとし、兄弟が自分に反感を持っているのをそこで思い出したなら、5:24 その供え物を祭壇の前に置き、まず行って兄弟と仲直りをし、それから帰って来て、供え物を献げなさい。
 「あなたが祭壇に供え物を献げようとし」とあります。これは礼拝のことを言っています。私たちは毎週、教会に集って、神さまを礼拝しています。「兄弟が自分に反感を持っているのをそこで思い出したなら、その供え物を祭壇の前に置き、まず行って兄弟と仲直りをし、それから帰って来て、供え物を献げなさい」とあります。礼拝をしている時、対立している人のことを思い出したなら、その途中でその対立している人のところへ行き、仲直りしなさい。そして、改めて礼拝をするようにしなさい、ということです。
 神さまを礼拝する。それは私たち一人一人が神さまの前に立つということです。神さまの前で自分の歩みを振り返るのです。神さまが求めておられること、愛することに努めてきただろうか?善いことのために努めてきただろうか?私たちは自分の日々の歩みを振り返ると、モヤモヤするようなことがあるかもしれません。もしも罪を示されたなら、「まず行って」とありますように、自分からその対立している人と仲直りをするようにしなさい、というのです。相手の出方を待って、というのではありません。示されたなら、自分の方から進み出て仲直りするように努めるのです。
 25節にはこのように語られていました。
5:25 あなたを訴える人と一緒に道を行く場合、途中で早く和解しなさい。さもないと、その人はあなたを裁判官に引き渡し、裁判官は下役に引き渡し、あなたは牢に投げ込まれるにちがいない。
 ここでも「途中で早く和解しなさい」とあります。自分の方から和解するように、と言われています。この後の「牢に投げ込まれる」というのは、和解しないならば、罪に縛られたまま、罪の重荷を負ったまま、生きていくことになるという意味です。
 そして、今日の聖書の最後の言葉、26節です。
5:26 はっきり言っておく。最後の一クァドランスを返すまで、決してそこから出ることはできない。」
 この「最後の一クァドランスを返すまで」というのは、ローマの青銅貨で1デナリオンの64分の一です。1デナリオンというのは一日の労働賃金に当たります。その64分の一ですから、僅かな金額です。しかし、その僅かな金額を返すまで、牢から出ることはできない。つまり、私たちにとっては、どんなに小さなこと、小さな罪と思えることでも神さまの前には問われるということです。

(むすび)
 最初に、イエスさまは律法を完成するために、この世においでになった。私たちのところにおいでになった、ということからお話ししました。イエスさまは「殺してはならない」という教えは、実際に人を殺すということだけではなく、心の中で殺すということも神さまの前には問われるのだ、と言われたのです。そして、あなたがたは「殺してはならない」。殺さなければそれでいい、というのではなく、仲直りしなさい、和解しなさい、と言われました。イエスさまはこのように語られ、律法の真意を示され、また律法を文字面だけでなく、心から従うように、と教えられたのです。
 イエスさまが山上の説教の初めに語られた言葉の中に「平和を実現する人々は、幸いである」(9節)とありました。イエスさまがお示しになった幸い、それは平和を実現することです。戦争ではなく、平和です。私たちは世界各地で起こっている戦争が終わるように、ストップするように、と祈ります。しかし、そのように祈りながら、自分自身は身近なところで小さな戦争を毎日のように引き起こしているようなことはないでしょうか?しかし、主は平和を実現することを求められます。今日の聖書箇所で言うならば、「まず行って兄弟と仲直りをし」なさい。「途中で早く和解しなさい」、ということです。イエスさまの十字架はこのことのためでした。平和のため、和解のためにイエスさまは十字架におかかりになり、私たちを罪から救ってくださったのです。私たちは、イエスさまの十字架の意味をおぼえて、私たちを平和を求め、平和を実現する者としてください、と祈りつつ、歩んでまいりましょう。

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