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【礼拝説教】2022年10月16日「偶像礼拝を避けよ」

聖書―コリントの信徒への手紙一10章14~22節
(はじめに)
 今日の説教題は、「偶像礼拝を避けよ」としました。これは今日の聖書箇所の最初の言葉、14節に書かれていた言葉です。14節を読んでみます。
10:14 わたしの愛する人たち、こういうわけですから、偶像礼拝を避けなさい。
 使徒パウロがコリントの教会の人たちに書き送った手紙、それがこのコリントの信徒への手紙です。「わたしの愛する人たち」とパウロはコリントの教会の人たちのことを呼びました。パウロにとって、コリントの教会の人たちというのは、パウロの愛する人たちなのです。これまで、この手紙を読んできましたが、ところどころ厳しい言葉が語られていました。それはパウロがコリントの教会の人たちを良く思っていないから、ということではないのです。むしろ、愛しているからこそ、コリントの教会の人たちが罪に陥らないように、曲がった道を歩むことがないようにと、愛から出た厳しさでした。
 
(聖書から)
 もう一度、14節をご覧ください。「こういうわけですから」という言葉が語られていました。「こういうわけですから」というのは、前に書かれていたことを受けての言葉です。14節のすぐ前に書かれていた言葉、13節を読んでみます。
10:13 あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。
 人生の試練の時に励ましの言葉としてよく読まれる言葉です。神さまは私たちを試練から助けてくださる。私たちはそう信じて、神さまに祈り求めます。ここで言われている試練というのは、私たちの人生の苦しみと理解されますが、この言葉の前、7節にはこのようなことが書かれています。
10:7 彼らの中のある者がしたように、偶像を礼拝してはいけない。「民は座って飲み食いし、立って踊り狂った」と書いてあります。
 偶像礼拝をしてはいけない、とあります。他にも、悪をむさぼること(6節)、みだらなこと、キリストを試みること、不平を言うこと(8~10節)などが書かれています。これらは、エジプトを脱出したイスラエルの民が荒れ野の旅の時に犯した罪です。今日の箇所では、「偶像礼拝を避けなさい」とあることから、イスラエルの民の犯した罪の中で、特に偶像礼拝の罪について語っています。
 イスラエルの民の偶像礼拝の罪ということで、皆さんが思い浮かべるのは、金の子牛のことだと思います(出エジプト32章)。イスラエルの民は、モーセがなかなか山から下りてこないので不安になり、モーセの兄アロンにお願いして、金の子牛を造り、それを拝みます。その時、モーセは山で何をしていたかというと、神さまから戒めを受けていました。イスラエルの民のために神さまが与えてくださった戒め、十戒です。ところが、イスラエルの民はモーセという信仰的な指導者がいない間、不安に陥り、金の子牛を造り、偶像礼拝をしてしまいました。
 私たちは不安に陥ると、目に見える何かを拠り所にしようと考えます。イスラエルの民は、自分たちが神さまの民とされているのに、神さま以外のものを拠り所、神のようにすがったのです。このように、試練というのは、私たちの人生の苦しみ、危機的な状態だけのことではありません。信仰が揺らいでしまう時、信仰の危機、そういう意味での試練、信仰の試練もあります。けれども、私たちはそのことについては、あまり、深刻には考えないかもしれません。しかし、13節の「あなたがたを襲った試練で・・・」。この言葉は信仰の試練、危機についても私たちに語っている言葉です。
 そして、これに続いて、「偶像礼拝を避けなさい」とあります。「偶像礼拝を避けなさい」。別の訳では、「偶像礼拝から逃れなさい」とあります。偶像礼拝から逃れる。あるいは逃げる。13節の最後に「逃れる道をも備えていてくださいます」とありました。その言葉と併せて考えますと、神さまは私たちを信仰の試練、危機から逃れさせてくださる。偶像礼拝から逃れさせてくださる。神さまが逃れの道を備えていてくださるから。そのように考えることができます。
 そして、15節には、このようなことが語られています。
10:15 わたしはあなたがたを分別ある者と考えて話します。わたしの言うことを自分で判断しなさい。
 先ほど、パウロはコリントの教会の人たちを「わたしの愛する人たち」と呼んだことに触れましたが、ここではコリントの教会の人たちのことを「わたしはあなたがたを分別ある者と考えて話します」と言っています。そして、「わたしの言うことを自分で判断しなさい」とも言っています。自分で判断するように、というのです。
 この三ヶ月ほど、カルト宗教の問題が世間を騒がせていますが、カルトとは何か、というと、このパウロの言葉とは逆のことです。自分で判断させない、自分で考えないようにしてしまうことです。強い言葉や強い態度で押さえつけ、また恐怖心を与えたりして、人に自由に考えさせること、判断させることをできなくしてしまう。そのようにして、無理やり信じ込ませてしまう。それがカルトです。
 しかし、パウロは、コリントの教会の人たちのことを、分別ある人たちと言いました。一人一人を尊重した態度です。そして、自分が言うことを何も考えないで、無批判に受け入れなさい!とは言わず、聞いたことを自分で判断してください、と言っています。このように、キリスト教信仰というのは、自分で判断して信じるものです。そういうことだとなかなか人は信じないのではないか?と言われる方があるかもしれませんが、私は福音そのものの力を信じています。人間が人為的に強制したりして信じさせるのではない。福音そのものがその人の心に触れて、信仰の目を開かせてくださると信じています。ですから、私たちは生きて働かれる聖霊、神さまの働きによって、福音を聞いた方が、イエスさまは私の救い主です、と告白する日が来るように祈り続けるのです。
 16~18節をお読みします。
10:16 わたしたちが神を賛美する賛美の杯は、キリストの血にあずかることではないか。わたしたちが裂くパンは、キリストの体にあずかることではないか。10:17 パンは一つだから、わたしたちは大勢でも一つの体です。皆が一つのパンを分けて食べるからです。10:18 肉によるイスラエルの人々のことを考えてみなさい。供え物を食べる人は、それが供えてあった祭壇とかかわる者になるのではありませんか。
 ここで言われていることは、主の晩餐です。イエスさまはご自分が十字架におかかりになる直前に、弟子たちと食事をされ、パンはキリストの体にあずかること、杯はキリストの血にあずかることであると語られ、十字架の救いをお示しになりました。18節で言われていることも、イスラエルの民が主の祭壇にあずかることで、神さまと交わり、結ばれることを示しています。
 そして、19~21節に続きます。そこで言われていることは、偶像礼拝のことです。コリントの教会の人たちの多くの人たちは偶像に供えられた肉について、それを食べても何ら問題ない、と考えていました。そのことが分かるのは、この手紙の8章です。その一部をお読みします。「偶像に供えられた肉を食べることについてですが、世の中に偶像の神などはなく、また、唯一の神以外にいかなる神もいないことを、わたしたちは知っています」(8章4節)。
 偶像の神々などは実在しないのだから、偶像に供えられた肉を食べても問題ない、ということです。おそらく、皆さんも同じ考えだと思います。ところが、パウロはその話をここで蒸し返しているように思えます。19節からお読みします。
10:19 わたしは何を言おうとしているのか。偶像に供えられた肉が何か意味を持つということでしょうか。それとも、偶像が何か意味を持つということでしょうか。10:20 いや、わたしが言おうとしているのは、偶像に献げる供え物は、神ではなく悪霊に献げている、という点なのです。わたしは、あなたがたに悪霊の仲間になってほしくありません。10:21 主の杯と悪霊の杯の両方を飲むことはできないし、主の食卓と悪霊の食卓の両方に着くことはできません。
 偶像の神々が実在するかどうか、という話ではありません。問題なのは、実在しないのに、偶像を礼拝することです。コリントの教会の人たちの中には、偶像の神々は実在しないからと言って、偶像礼拝の場に平気で赴く人たちがいたようです。
10:22 それとも、主にねたみを起こさせるつもりなのですか。わたしたちは、主より強い者でしょうか。
 偶像の神々は実在しません。しかし、実在しないのに、それを拝む人たちがいる。そして、キリストを信じているのに、その人たちと一緒になって偶像礼拝している人たちがいる。あなたがたは主の晩餐にあずかり、主の十字架の救いを受けた者ではないか。それなのに、何の痛みもなく、そのようなことをしてよいのか?ここに「主にねたみを起こさせるつもりなのですか」とありますが、神さまはご自分以外のものを神とすることを妬むほどに悲しまれるのです。

(むすび)
 「わたしたちは、主より強い者でしょうか」とありました。コリントの教会の中には、自分たちはどんなことがあっても躓かない。私たちは信仰が強いから。そのように言って、自分の信仰に自信のある人たちがいたようです。その人たちは、偶像礼拝の場に行っても、どうってことはない、と考えていたようです。私たちは偶像礼拝を一緒に行なうということはないかもしれません。しかし、自分は聖書のことも、信仰のことも分かっている。自分の信仰はしっかりしている。大丈夫だ。聖書を学ばなくても、祈らなくても、それなりにやっていける。そのように考えている人はいるかもしれません。
 今、教会の活動はコロナ禍にあって、休止されているものが多くあります。教会学校もそうです。再開が待たれますが、教会で一緒に聖書を読むこと、学ぶことはとても大事です。私は今、求道されている方、信仰をお持ちになって比較的新しい方と聖書を読むこと、学ぶこと、そういう機会が与えられています。そこで教えられることは多いです。その学びの中で、自分自身が聖書のことを、信仰のことを本当に分かっていただろうか?神さまのことを、自分自身のことを本当に分かっていただろうか?と教えられ、気づかされることばかりです。私も強い者ではありません。主の前に立つ時、弱さをおぼえる一人です。信仰の歩み、信仰の学びは生きている限り、終わりはありません、卒業もありません。日々、新たに歩んでいきましょう。

祈り
恵み深い主なる神さま
使徒パウロはコリントの教会の人たちのことを、私の愛する人たち、と呼びました。分別のあるあなたがたは私の言っていることを自分で判断しなさい、とも言いました。主ご自身が一人一人に語りかけてくださり、上からの知恵、真理を教えてくださると信じていたから、そして、祈りがあったから、このように言えたのでしょう。
私たちも主にある兄弟姉妹のことを愛する人たちと互いに呼び合い、互いに祈り合い、主にあって歩んでいく者としてください。自分は強い者と自負していた人たちに向かって、パウロは、私たちは主より強い者でしょうか?と問いかけました。弱さを覚える私たちは、その弱さを誇り、キリストの力に支えられて歩ませていただけること(二コリント12章9節)を喜びとする者としてください。
私たちの救い主イエス・キリストのみ名によってお祈りします。 アーメン

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