【礼拝説教】2023年1月1日「主が教えられた祈り(1)」
聖書―マタイによる福音書6章9~15節
(はじめに)
新年あけましておめでとうございます。新年の挨拶として、私たちは新しい年を迎えることができておめでとう、とお互いに声を掛け合います。しかし、教会では、年始、新しい年を迎えるときだけでなく、年末にもおめでとうございます、と言います。年末のおめでとうとは、クリスマスのことです。クリスマス、おめでとうございます!と言います。
私は、このクリスマスのおめでとうについては、クリスマスはイエスさまのお誕生だから、イエスさまに対して、私たちがおめでとう、と言うのだろうと思っていましたが、聖書の語るクリスマスのメッセージはそうではないのです。クリスマスのおめでとう、それは、私たちに対してなのです。私たちが、救い主イエスさまをお迎えすることができる、そのことがおめでたい、私たちにとっておめでたいことなのです。
新しい年、この年も互いにイエスさまをお迎えできておめでとう!そう呼び合える一年でありたいと思います。
(聖書から)
さて、今日はイエスさまが教えてくださったお祈り、「主の祈り」と言われる祈りから聴いていきたいと思います。お読みした聖書箇所は、イエスさまが山の上で人々に語られた説教、山上の説教と言われる箇所の一部です。マタイによる福音書6章5節からは、祈りについて語られています。5~8節をご覧いただきますと、間違った祈りについて語られています。人に見せるための祈りであるとか、長々と呪文のような祈りであるとか、そういう祈りに対して、「隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい」(6節)と言われました。これは、あなたの父、すなわち、神さまに祈りなさい、ということです。人に見せるために祈っているときというのは神さまに向かって祈っていないのです。神さまのことを忘れ、人の評価、評判、そういうものに心が向いているのです。「あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じ」(8節)とも言われました。長く祈れば、言葉数を多く祈れば、祈りは聴かれる、というのではありません。神さまは、私たちの願いのすべてをご存じです。だから、その神さまを心から信頼して祈りなさい、と言われたのです。
そして、イエスさまは9節以下、「だから、こう祈りなさい」と言われ、祈りを教えられました。最初の言葉はこれです。「天におられるわたしたちの父よ」。神さまへの呼びかけから始まります。また、このことから分かることは、祈りは誰に向かってするものであるのか、ということです。天におられる私たちの父、神さまに向かってなされるものです。
私たちは祈るとき、「天の神さま」とか、「天のお父さま」と祈ります。最近は、高い人権意識を持っておられる方々の中には、「父」という言葉だけだと、家父長制的であるとして、「天の父であり母である神さま」と祈られる方もあります。ところで、この「父」ということですが、私たちを造られ、愛されている方という意味です。それに対して、私たちはその神さまの子供です。私たちは、子供が自分の親に呼びかけるように神さまに祈るのです。イエスさまは、神さまのことを「アッバ、父」(マルコ14章36節)と呼んで祈られました。アッバというのは、アラム語で小さな子供が親を呼ぶときの言い方です。パパとかママ、お父ちゃんとかお母ちゃんとでも言ったらよいでしょうか。イエスさまはこの祈りで、神さまは私たちの真の親であり、私たちはその子供であるということを教えられました。
これに続いて、「御名が崇められますように。御国が来ますように。御心が行われますように、/天におけるように地の上にも」(9、10節)という祈りが続きます。これらの祈りは神さまについての祈りです。主の祈りの中で、まず、この祈りが教えられていることに注目したいと思います。
「御名が崇められますように」。神さまのお名前が崇められますように。崇めるというのは、神さまを礼拝する、神さまを神さまとして特別な方として尊重する、ということです。最近の聖書の翻訳では、この「崇められますように」という言葉が「聖とされますように」(聖書協会共同訳)と訳されるようになりました。従来の訳のように、神さまのお名前が崇められますように、礼拝されますように、ということと合わせて、この「聖とされますように」ということを考えてみたいと思います。
「聖とされますように」ということから、私たちはある問いかけを受けます。それは、私たちの日々の生活において、神さまを聖としてきただろうか?ということです。聖とする、聖別する。それは、神さまを特別な方として尊重し、その語られる言葉を何よりも優先させるということです。私たちは、神さまを聖とすることよりも、むしろ、神さまのみ名を汚すようなことをしてきたのではないでしょうか。神さまを軽んじる、無視する・・・・。神さまが与えた命を愛さない、大事にしない。それは神さまのみ名を汚すことです。「御名が崇められますように」、「御名が聖とされますように」。これは私たち自身に対する問いかけであり、悔い改めを促す祈りではないでしょうか。
続いて、「御国が来ますように」とあります。神さまの国が来るように、ということです。神さまの国は天の国、天国と同じことです。天国というと、死んだ後に行くところ、というイメージがありますが、ここには、天国に行く、とは言われていません。御国が来る、天国が来るというのです。マタイによる福音書の初めのところには、バプテスマのヨハネが「悔い改めよ。天の国は近づいた」(3章2節)、イエスさまもその宣教の開始の時、「悔い改めよ。天の国は近づいた」(4章17節)と言われました。バプテスマのヨハネも、イエスさまも、天の国は近づいた、天の国がやって来た、と言われます。私たちは先週、イエスさまのご降誕をお祝いしましたが、イエスさまが私たちのところにおいでになった。それこそは天の国が近づいた、ということです。また、み国というのは、支配という意味があります。ですから、神さまの支配が来るように、と私たちは祈るのです。
ルカによる福音書では、マタイが「天の国」と言っている言葉を「神の国」と言っています。イエスさまに対して、ファリサイ派の人々が、神の国はいつ来るのだろうか、とイエスさまに尋ねた時、イエスさまはこのように答えられました。「神の国は、見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ」(ルカ17章20、21節)。この「神の国はあなたがたの間にある」というのは、神の国、天の国というのは、ただ待っているだけでは分からない、傍観者のようにしていては分からない。私たちが、神さまの国の言葉、神さまの言葉に生きる時、そこで分かることだ、というのです。
そして、神さまについての祈り、その三つ目が「御心が行われますように、/天におけるように地の上にも」です。神さまのみ心が行われますように。み心というのは、神さまのお考え、神さまの思いのことです。天地創造の記事で神さまが人間をお造りになった時、「神は御自分にかたどって人を創造された」(創世記1章27節)とありますが、これは、私たち人間が神さまのみ心をこの世界において反映させる、表す存在としてお造りになった、ということです。「天におけるように地の上にも」とあります。「地の上」というのは、私たちが生きるこの世界のことです。
クリスマスのメッセージの中で、天使が羊飼いに救い主のご降誕を告げ知らせた箇所で、天使と天の大軍が一緒に神さまを賛美した場面がありました。
「いと高きところには栄光、神にあれ、/地には平和、御心に適う人にあれ」(ルカ2章14節)。
ここには「地には平和、御心に適う人にあれ」とあります。この天使と天の大軍の賛美と、み心が行われますように、という祈りは共通します。「御心に適う人」とは誰でしょうか?私たちのことです。私たちが神さまのみ心を求め、知り、それに生きるように、と言われているのです。「地には平和」ともありました。イエスさまが語られた幸い、そこには、「平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる」(5章9節)とありました。私たちは昨年、ウクライナに平和が来ますように、ミャンマーに平和が来ますように、と祈り、ささげました。この祈り、このささげものは私たちの平和のための具体的な行動だと思います。この新しい年も、「地には平和」、この世界に神さまの平和が来ますように、これからも祈り、平和の実現のために励んでいきましょう。
(むすび)
今日は、イエスさまが教えてくださった祈りの前半の部分、神さまについての祈りの言葉からお話ししました。前半の祈りというのは、神さまについての祈り、神さまのための祈りと言いましたが、この祈りを学んできて分かることは、私たちについての祈りでもあり、私たちのための祈りでもあるということです。
神さまは私たちのために、ご自分の大切なみ子であるイエスさまを送ってくださいました。今、イエスさまは私たちと共に歩んでくださっています。「御名が崇められますように。御国が来ますように。御心が行われますように、/天におけるように地の上にも」。この祈りをもってこの一年を歩んでまいりましょう。
祈り
恵み深い主なる神さま
昨年2022年の歩みを導いてくださって感謝します。そして、新しい年を主にある兄弟姉妹と一緒に迎え、礼拝から始めることができることを感謝します。
この年もイエスさまを私の主と呼んで、お迎えし、新しい人生を歩む方がありますように、導いてください。
イエスさまは、私たちに祈ることを教えてくださいました。祈りを通して、神さまをもっともっと深く知ることができますように。神さまの心を私の心とすることができますように。私たちを神さまのみ心を表す者として用いてください。
私たちの救い主イエス・キリストのみ名によってお祈りします。 アーメン
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