ARCHIVE

アーカイブ

  1. HOME
  2. ブログ
  3. 説教
  4. 【礼拝説教】2023年1月8日「主が教えられた祈り(2)」

【礼拝説教】2023年1月8日「主が教えられた祈り(2)」

聖書―マタイによる福音書6章9~15節
(はじめに)
 先週から、イエスさまが教えてくださった「主の祈り」から、聖書の言葉を聴いています。先週はマタイによる福音書6章9、10節から、神さまについての祈りを聴きました。イエスさまはまず、神さまのことを祈るように、と教えられたのです。聖書はとても分厚い本で、どこから手を付けたらよいか、読み始めたらよいか、困ってしまう、とよく言われるのですが、聖書の中心は何か、ということを知ることが大事です。その中心点を押さえて読んでいくなら、理解しやすくなります。
 イエスさまのところに、ある一人の律法学者が来て、聖書の中心はどこでしょうか?と尋ねる箇所があります。それに対して、イエスさまはこのようにお答えになりました(マルコ12章29~31節)。
12:29 イエスはお答えになった。「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。12:30 心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』12:31 第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにない。」
イエスさまは律法学者の質問に対して、二つのことをお答えになりました。一つは、神さまを愛するということです。そして、もう一つは、隣人を愛するということです。この二つが最も大切な教えだと言われました。
神さまを愛するということ。皆さん、いかがでしょうか?私たちと神さまとの関係を考えると、神さまを信じている人は、神さまは私を愛しておられる。このことは知っています。しかし、私が神さまを愛する。このことについて、考えてみたり、意識したりすることはどうでしょうか?このように言うのは、日頃、私自身が、自分は神さまに愛されている、ということに比べると、自分が神さまを愛する。このことについては、あまり考えていない、意識していないことが多いように思えるからです。
主の祈りの前半、それは神さまのための祈りでした。この祈りを通して、イエスさまは、私たちが神さまを愛すること、神さまを大切にすることを教えられたのではないでしょうか。

(聖書から)
 さて、今日も主の祈りから聴いていきたいと思いますが、11節をお読みします。
6:11 わたしたちに必要な糧を今日与えてください。
 前半の9、10節が神さまのための祈りというならば、11節以下は、私たちのための祈りです。11、12、13節とご覧いただきますと、「わたしたち」という言葉が繰り返されています。ところで、「わたしたち」とは、誰のことでしょうか。私の愛する家族、私の親しくしている友人。そういう人たちのことが思い浮かぶかもしれません。しかし、ここで祈られる「わたしたち」はそこで留まってはならないのです。
 私たちは昨年、ウクライナの人たち、ミャンマーの人たちのことを祈り、ささげました。この年も引き続き、祈り、ささげたいと思います。そのようにして、「私たち」ということが、「私たちの祈り」が拡がっていくのです。「わたしたちに必要な糧を今日与えてください」という祈りが教えられていました。この「今日与えてください」という言葉から、切実な求めであることが分かります。今日一日の糧を得ることに必死な人たちがおられる。私たちは、私の必要だけでなく、私たちの必要、今日一日の糧を得ることに必死に生きておられる人たちのためにも祈っていきたいと思います。
続いて12節をお読みします。
6:12 わたしたちの負い目を赦してください、/わたしたちも自分に負い目のある人を/赦しましたように。
 「負い目」とあります。口語訳聖書では、「負債」となっていました。借金ということです。そうしますと、「わたしたちの負い目を赦してください」というのは、私たちの借金を赦してください、ということになります。誰に対して、借金をしているのでしょうか。私たちは神さまに対して借金をしているというのです。その借金を免除してください、と祈っているのです。
 借金と言いましたが、新共同訳聖書では「負い目」と訳しています。神さまに対して負い目がある。どういう負い目でしょうか。それは罪の負い目です。神さまから罪を赦していただいた、という負い目です。神さまから罪を赦していただいたから、私は神さまにその分、お返ししなければならない、お応えしていかなければならない・・・。もしかすると、このように考える方があるかもしれません。私は十分、神さまにお返ししています、お応えしています。あれもしました、これもしました、教会の働きはありとあらゆる形で行ってきました。だから、私は神さまに対して、私の負い目をお赦しください、という祈りはもう必要ないでしょう。
 いいえ、私たちはどのようなことをしても、神さまに対する負い目を克服することはできない、十分にお返しすること、お応えすることはできないのです。なぜなら、神さまが私たちのために罪を赦してくださったということ、それは神さまのみ子であるイエスさまの命という大きな代償ゆえのことなのです。ですから、私たちはずっとこの祈りを続けなければならないのです。「わたしたちの負い目を赦してください」。そして、この祈りをする者はさらに、次の祈りへと導かれます。「わたしたちも自分に負い目のある人を/赦しましたように」。
 先ほどの祈りと合わせると、ここで教えられていることは、私たちは、私たちに負い目のある人を赦しましたから、神さま、あなたも私たちをお赦しください。そのように理解できます。すると、何か赦しについて取り引きしているみたいです。でも、ここで教えられているのはそういうことではありません。新改訳2017では、このように訳されていました。
6:12 私たちの負い目を赦してください。私たちも、私たちに負い目のある人たちを赦します。
 私たちが神さまに自分の負い目をお赦しください、と祈る時、私たちは神さまの赦しを思い起こすのです。この私のために命をささげてくださったイエスさまの十字架の救いを思い起こすのです。その神さまの赦しに促されて、私たちは決心するのです。私たちも自分に負い目のある人たちを赦します!あるいは、神さま、私が赦すことができますように助けてください、と願うのです。
 私たちは神さまによって罪を赦された者です。それなのに、なぜ、いつまでも「わたしたちの負い目を赦してください」と祈り続けるのでしょうか。赦されている私たちなのです。けれども、それでもなお、罪を犯し続けてしまう私たちなのです。神さまを信じていると言いながら、神さまからすぐに離れてしまう。神さまの求めておられることと反対のことをしてしまう私たちなのです。ですから、私たちはその度ごとに罪をお赦しください、と祈り続けていくのです。
 私は昨年末、YouTubeであるアメリカの二人の著名な牧師たちが対談をしている動画を観ました。二人とも大きな働きをしてきた人たちです。自分はこういう働きをした、ああいう成果をもたらした、といった成功体験を延々と語る内容かと思いましたが、そうではありませんでした。牧師としての歩みの中で様々な誘惑、試練があったこと、失敗、挫折をしたこと、自分たちの人間的な不完全さ、弱さなど、互いに率直に告白し合い、その中にあっても神さまの守りと助けがあったことを感謝し合い、祈り合っていました。私はその対談を聴きながら、大変感動しました。この人たちは自分たちが牧師として成功しよう、大きなことを成し遂げよう。そういうことを求めて来た人たちではありませんでした。彼らが求めてきたことは何だったのか。そのことを考えさせられました。そして、一つの聖書の言葉を思い起こしました(コロサイ3章1~3節)。
3:1 さて、あなたがたは、キリストと共に復活させられたのですから、上にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の右の座に着いておられます。3:2 上にあるものに心を留め、地上のものに心を引かれないようにしなさい。3:3 あなたがたは死んだのであって、あなたがたの命は、キリストと共に神の内に隠されているのです。
 「上にあるものを求めなさい」。この言葉です。私たちは死んだのです。私たちの古い自分、罪に支配された自分は死んだのです。そして、キリストと共に生きている。その私たちは、上にあるもの、神さまの願っておられるもの、望んでおられるものを求めるのです。
 主の祈りの言葉に戻ります。
6:13 わたしたちを誘惑に遭わせず、/悪い者から救ってください。』
 「悪い者」とあります。単なる「悪」という概念ではないのです。私たちを神さまから引き離そうとする力、働きです。私たちが神さまを愛し、神さまに従っていこうとする時、そこから引き離そうとする力、働きがあることを私たちは知らなければなりません。そればかりか、私たちがおごり高ぶる時、傲慢になる時、自分には何も問題がない、罪がないと思う時、悪い者は私たちを誘惑するのです。「わたしたちを誘惑に遭わせず、/悪い者から救ってください」。この祈りを祈り続けていきましょう。

(むすび)
 イエスさまが教えてくださった主の祈り、その祈りは13節で終わっていますが、14、15節には、主の祈りの補足のような言葉が語られています。
6:14 もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたの過ちをお赦しになる。6:15 しかし、もし人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しにならない。」
 この言葉は、12節で教えられていた赦しについての祈りの補足と言えます。それは、私たちにとって、赦しはとても大切なことであることを示しています。イエスさまは、ご自分の弟子たち、また群衆の姿をご覧になって、改めて、赦し合うことの大切さを語ったのでしょう。私たちも赦し合うことの難しさをおぼえる者ですが、14,15節に「あなたがたの天の父もあなたがたの過ちをお赦しになる」、「あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しにならない」とありますように、赦しというのは、私たち人間が互いを赦すとか、赦さない、ということで留まらないことが分かります。「あなたがたの天の父」である神さまにこそ、赦しの権限はあるのです。そのことを忘れて、まるで自分が審判者のように、裁き主のようになっていることはないでしょうか?本当の審判者、本当の裁き主は神さまです。神さまの赦しをしっかりと受け止めて、互いが神さまから赦された者であることをおぼえ、赦し合う者でありたいと思います。

祈り
恵み深い主なる神さま
 主は私たちに祈りを教えられました。何を祈ったらよいのか、教えてくださいました。
私たちは、神さまのことを忘れ、自分のことばかり求めてしまう者です。しかし、主の祈りを通して、神さまを愛すること、隣人を愛することを示されます。
神さまに罪を赦され、神さまの命に生きる者とされたことを感謝します。赦された私たちが互いに赦し合う者となりますように、私たちの心を神さまの愛と赦しで満たしてください、聖霊によって導いてください。
私たちの救い主イエス・キリストのみ名によってお祈りします。 アーメン

  • コメント ( 0 )

  • トラックバックは利用できません。

  1. この記事へのコメントはありません。

関連記事

記事一覧

カテゴリー

アーカイブ

月を選択