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【礼拝説教】2023年2月12日「私たちの心の目はどこに向いているか」

2023年2月12日(日)(朝・夕)赤塚教会礼拝説教「私たちの心の目はどこに向いているか」マタイによる福音書6章19~24節

聖書―マタイによる福音書6章19~24節
(はじめに)
「富は、天に積みなさい」(20節)。この言葉は、天を見つめて生きる人たち、すなわち、天の国の希望を持って生きる人たちにとっては励ましの言葉です。しかし、私は、この聖書の言葉を、今まで、このように理解していました。イエスさまを信じる人たちは、この地上では、この世では、苦労することばかり、我慢することばかりだけれど、じっと耐え忍んで生きていきなさい。天の国では、大きな報いがあるから。そういう意味として理解してきました。クリスチャンは、自分のために、ではなく、ひたすら、神さまのために、他人(ひと)のために生きる者。ここに書かれていることは、そういうことだと思っていました。しかし、今回、改めて、この聖書の言葉を読んで、イエスさまは、私が思っているような意味で語られたのではない。そのことを教えられました。

(聖書から)
19~21節の言葉をお読みします。
6:19 「あなたがたは地上に富を積んではならない。そこでは、虫が食ったり、さび付いたりするし、また、盗人が忍び込んで盗み出したりする。6:20 富は、天に積みなさい。そこでは、虫が食うことも、さび付くこともなく、また、盗人が忍び込むことも盗み出すこともない。6:21 あなたの富のあるところに、あなたの心もあるのだ。」
私は説教の準備をする時は、幾つかの翻訳聖書も併せて読むようにしています。そうすると、一つの訳だけでは気づかなかったことに気づかされることがあります。今お読みしました聖書の言葉を口語訳聖書で読んでみます。
6:19 あなたがたは自分のために、虫が食い、さびがつき、また、盗人らが押し入って盗み出すような地上に、宝をたくわえてはならない。6:20 むしろ自分のため、虫も食わず、さびもつかず、また、盗人らが押し入って盗み出すこともない天に、宝をたくわえなさい。6:21 あなたの宝のある所には、心もあるからである。
いかがでしょうか。口語訳聖書では、「自分のために、・・・地上に、宝をたくわえてはならない」、「むしろ自分のため、・・・天に、宝をたくわえなさい」となっていました。つまり、ここでイエスさまが、天に富を、宝を積みなさい、と言われたのは、「自分のため」という言葉が繰り返されていますように、これを聴くあなたたちのためなのだ、ということです。私たちは、聖書の言葉を聴く時、これは私のためなのだ、と言ってくださるイエスさまの言葉に信頼して聴いていきたいと思うのです。
さて、イエスさまが、19節で、地上に富を積んではならない、と言われたのは、後半の言葉が示しているように、永遠ではないから、いつまでも残るものではないから、ということです。それに対して、20節の「富は、天に積みなさい」というのは、永遠であるもののために、いつまでも残るもののために富を積みなさい、と言われたのです。
永遠であるもの、いつまでも残るものとは何でしょうか?そのことについて、一つの聖書の言葉を読んでみたいと思います(一コリント13章13節)。
13:13 それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。
「富は、天に積みなさい」。富、つまり、私たちの大切なもの、また何を大切なものとしていくのか。「信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る」。この言葉から考えてみたらどうでしょうか。21節には「あなたの富のあるところに、あなたの心もあるのだ」とありました。私たちの心があるところというのは、私たちが最も価値を置くもの、あるいは、私たちが最も良いことと考えるものです。
この話に続いて、イエスさまは、目についてのお話しをされました。22、23節をお読みします。
6:22 「体のともし火は目である。目が澄んでいれば、あなたの全身が明るいが、6:23 濁っていれば、全身が暗い。だから、あなたの中にある光が消えれば、その暗さはどれほどであろう。」
お読みしてお分かりのように、ここで言われている「目」というのは、「心の目」のことです。私たちの心の目は何を見ているでしょうか、どこに向いているでしょうか。それによって、その人の生き方は違ってきます。また、時に私たちの心の目が濁ってしまうこともあります。23節の後半には、とても気になる言葉があります。「あなたの中にある光が消えれば、その暗さはどれほどであろう」。「あなたの中にある光」とありました。私はこの「光」というのは、信仰のことだと思います。もっと具体的に言うと、イエスさまとつながることです。ですから、光が消えるというのは、イエスさまとのつながりを断ってしまう、ということです。そうなると、「その暗さはどれほどであろう」とイエスさまは言われるのです。
イエスさまは、私たちとのつながりについて、お話しされました。ご自分がぶどうの木で、私たちはその枝であると言われました(ヨハネ15章4、5節)。
15:4 わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。15:5 わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。
イエスさまは、ご自分につながっているように、と言われました。このつながり、それが信仰です。私たちの心の目がイエスさまに向いていくように。イエスさまにつながっているように。お互いのために祈っていきたいと思います。
24節の言葉をお読みします。
6:24 「だれも、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」
ここに、主人に仕える、という話が語られていますが、ここから分かることは、私たちというのは、僕(しもべ)、仕える者ということです。イエスさまは、僕、仕える者として、私たちの世においでになりました。そのことについて、このように書かれています(フィリピ2章6~8節)。
2:6 キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、2:7 かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、2:8 へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。
これは、「キリスト賛歌」と呼ばれる聖書箇所です。私たちがイエスさまを信じるというのは、イエスさまの後に従うこと、イエスさまに倣って生きるということです。使徒パウロは、自分のことをこう言っています。「キリスト・イエスの僕」(ローマ1章1節)。私たちもイエスさまの僕、イエスさまに仕える者なのです。24節には、「あなたがたは、神と富とに仕えることはできない」とありましたが、イエスさまに仕える私たちは、富に仕えることはできないのです。ここで「富」という言葉は、原語では「マモン」という言葉です。本来は、富を表す言葉でしたが、擬人化して、悪魔の意味にもなりました。マモン、それは私たちを神さまから引き離すものと言ってもよいでしょう。私たちには、いつも私たちを神さまから引き離そうとする誘惑、試みがあります。その度に、私たちは、私の主人は誰なのか。私は誰の僕なのか。そのことを思い起こしていくのです。

(むすび)
信仰、それはつながりです。私たちがイエスさまにつながっていくことが信仰です。しかし、そのつながりを断とうとするものがあります。誘惑、試練などがあると、私たち自らイエスさまから離れてしまうことがあります。私たちの信仰というのは、本当にもろいものです。先ほどお読みしたヨハネによる福音書の中に、このようなことも書かれていました。「わたしもあなたがたにつながっている」(ヨハネ15章4節)。「わたしも」というのは、イエスさまのことです。イエスさまが私たちにつながってくださるというのです。私たちが離れそうになる時もイエスさまは私たちを離さないのです。イエスさまのみ手が私たちに伸ばされているのです。だから、私たちは信仰に生き続けることができるのです。イエスさまによって、このつながりを続けることができるのです。

祈り
恵み深い主なる神さま
私たちの心の目はどこを見ているでしょうか?どこに向いているでしょうか?日々の歩みの中で、私たちの心の目はすぐに濁ってしまいます。イエスさまが見えなくなってしまいます。
しかし、あなたはそういう私たちをそれでも変わることなく、み手を伸ばしてくださり、あなたのもとへ立ち帰らせてくださいます。濁った心の目を澄んだ、真っ直ぐなものにしてくださいます。
変わることのない主の愛に支えられて、この新しい週も歩ませてください。
私たちの救い主イエス・キリストのみ名によってお祈りします。 アーメン

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