ARCHIVE

アーカイブ

  1. HOME
  2. ブログ
  3. 説教
  4. 【礼拝説教】2021年12月12日「インマヌエルの主」

【礼拝説教】2021年12月12日「インマヌエルの主」

2021年12月12日(日)(朝・夕)赤塚教会礼拝説教「インマヌエルの主」マタイによる福音書1章18~25節

聖書―マタイによる福音書1章18~25節
(はじめに)
 まもなくクリスマスを迎えます。今日はアドベント第三週の日曜日です。アドベントというのは、日本語では待降節と言います。漢字でこの言葉を見ると、待つ、という字の一文字で「待」、そして、イエスさまがお生まれになること、これをご降誕と言いますが、その一文字を取って「降」となります。イエスさまがお生まれになることを待つ期間、待つ季節ということで待降節ということになります。
 けれども、考えてみると、教会というところは、一年中、待降節、イエスさまがお生まれになることを待つところではないかと思います。イエスさまはご存じのように、今から二千年ほど前に、ユダヤのベツレヘムでお生まれになりましたが、その生まれたはずのイエスさまを毎年、この時期に待ち望む。これはどういうことかと言うと、私たちの心に、私たちの人生にイエスさまがお生まれになることを待ち望むということなのです。そのために教会はこのクリスマスの時期、そして、一年中、イエスさまが私たちのためにおいでになりました、ということをお知らせするのです。
 どうか、この年も新たにイエスさまを心に、人生に誕生する方がありますように、祈り、お知らせしましょう。

(聖書から)
 お読みしました聖書の言葉はマタイによる福音書1章18~25節です。ここにはイエス・キリストの誕生の経緯が書かれています。18節にはこのように書かれています。
1:18 イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。
 イエスさまの母となる人はマリアです。そのマリアはヨセフという人と婚約をしていました。聖書の舞台のユダヤでは、婚約をしていた、というのは、夫婦とみなされていたそうです。一年程度の婚約期間を経て、結婚生活に入ることになっていたそうですが、まだ、婚約期間は夫婦としてお互いを知ること、つまり、関係を結ぶことはありませんでした。ところが、マリアは身ごもった。妊娠していた、ということです。そのことについて、聖書は「二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった」と語ります。
 聖霊によって身ごもった。聖書はこのように語りますが、夫であるヨセフは、この「聖霊によって」ということは知りませんでした。ですから、いったい何が起こったのだろうか?大変驚きました。何が起こったのか分からないヨセフについて、19節にはこのように書いてあります。
1:19 夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した。
 先ほど、ユダヤにおいては、婚約中の二人でも、夫婦と見なされた、と言いましたが、ここに「夫ヨセフ」と書いてあるのはそういうことで間違いではありません。この後、20節にも「妻マリア」と書いてありますが、これも間違いではありません。
 さて、ヨセフですが、ヨセフは正しい人だった、とあります。この正しさというのはどういうことかというと、ユダヤの律法、神さまからいただいた律法を忠実に守ることに努めていた人であった、ということです。すると、この後には「マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した」とありますが、ヨセフはマリアが何か不貞を犯した、と考えたのでしょうか?それでマリアとの結婚を止めようと考えたのでしょうか?
 「マリアのことを表ざたにするのを望まず」とありますが、もしもマリアの不貞行為が表ざたになったならば、ユダヤの掟では、石打ちの刑、死刑に処せられることになります。そのことを避けるためにヨセフは人々に公にならない形で離縁しようとしたようです。ところで、「表ざたにするのを望まず」とありますが、別の訳では「マリアをさらし者にしたくなかったので」(新改訳2017)とあります。この訳ですと、ヨセフのマリアに対する思いが強く伝わってきます。ヨセフはマリアを守るために離縁しようとしたのです。すると、ヨセフが正しい人であった、というその正しさというのは、神さまの律法に忠実であろうとした、ということをお話ししましたが、その律法の中心をヨセフは正しくとらえていたと言えます。律法の中心は何でしょうか?それは神さまを愛すること、そして、隣人を愛することです(マタイ22章37~40節参照)。
 私たちはイエスさまを救い主と信じて、聖書が語る神さまの言葉に聴き従って生きる者ですが、愛がなければ、すべては空しいのです。使徒パウロはこのように語ります(一コリント13章1、2節)。
13:1 たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、わたしは騒がしいどら、やかましいシンバル。13:2 たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい。
 教会には様々な働きがあります。伝道すること、奉仕すること、献金すること・・・。それらのすべては愛からなされるものです。神さまに愛されている感謝、喜びから、私たちも神さまに対する愛をもって、隣人に対する愛をもってなされるものです。
今日の聖書に戻ります。まだヨセフは「聖霊によって」ということを知りませんでした。そのことを神さまが遣わした天使が伝えます。
1:20 このように考えていると、主の天使が夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。1:21 マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」1:22 このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。
 マリアが身ごもった理由がここで知らされます。そして、生まれる子供の名前を「イエス」と名付けるように命じられます。イエスという名前は当時、特別な名前ではなかったそうです。毎年、赤ちゃんの名前のランキングがこの時期に発表されます。今年は男の子ですと、「蓮(れん)」だそうですが、イエスという名前もよく名付けられた名前の一つだったそうです。イエスとは、「神さまは救い」という意味です。その名前の通り、イエスさまは私たちの救い主としてお生まれになりました。

(むすび)
1:23 「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」
この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。1:24 ヨセフは眠りから覚めると、主の天使が命じたとおり、妻を迎え入れ、1:25 男の子が生まれるまでマリアと関係することはなかった。そして、その子をイエスと名付けた。
 イエスさまはユダヤ人の言語であるヘブライ語で「インマヌエル」と呼ばれる、とありました。この意味は、神さまは我らと共におられる、ということです。ここまで、今日の聖書を読んできて、お気づきになった方があると思いますが、ヨセフが何を語ったか、ということは何も書かれていません。ただ、神さまの天使から知らされたことをそのまま受け止めていった、そのまま従っていった様子が書かれているだけです。ヨセフはマリアが聖霊によって身ごもり、イエスさまを産むことについて、そのことを聖霊によって、神さまのなさった出来事として、神さまを信頼し、受け入れていったのです。そして、今、私たちも神さまが私たちのためにお送りくださったイエスさまを受け入れていくならば、私たちの心は、人生はインマヌエル、神さまはこの私と共におられる、という恵みにあずかることができるのです。イエスさまを受け入れる方がありますように、イエスさまをお知らせしていきましょう、祈っていきましょう。

祈り
恵み深い主なる神さま
 アドベント第三週目のこの日、私たちはあなたを礼拝しています。
 あなたは私たちを罪から救い、永遠の命に生きるようにとあなたのみ子である救い主イエスさまをお送りくださいました。イエスさまはそのご生涯を通して、私たちに愛を示してくださいました。イエスさまの十字架の愛を知り、この年も新たにイエスさまをお迎えする方がありますように。インマヌエル、神さまは我らと共におられる。このことを体験する方がありますように導いてください。
私たちの救い主イエス・キリストのみ名によってお祈りします。 アーメン

  • コメント ( 0 )

  • トラックバックは利用できません。

  1. この記事へのコメントはありません。

関連記事

記事一覧

アーカイブ

月を選択