【礼拝説教】2023年6月25日「私は日々死んでいる」
聖書―コリントの信徒への手紙一15章29~34節
(はじめに)
お読みしました聖書の中に、「死者のために洗礼(バプテスマ)を受ける人たち」(29節)とありました。死者のためのバプテスマ。このような言葉を聞いたのは、初めてだ、という方があるかもしれません。これはどういうことかというと、何百という説、解釈があるそうですが、その中でも、有力なものは、キリストを信じることなく亡くなった人のために、家族が代理で受けたバプテスマということです。
ところで、バプテスマとは何かというと、救われるために受けるもの、バプテスマは救われるための手段と考える方がおられると思います。しかし、聖書には、救いについて、このようなことが書かれています。ローマの信徒への手紙10章9、10節をお読みします。
10:9 口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです。10:10 実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです。
救われるためにはどうしたらいいか?「イエス・キリストは私の主である」と心で信じ、口で公に言い表せばいいのです。ではバプテスマはどういう意味があるのか、というと、同じくローマの信徒への手紙6章3、4節にこのようなことが書かれています。
6:3 それともあなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスに結ばれるために洗礼(バプテスマ)を受けたわたしたちが皆、またその死にあずかるために洗礼(バプテスマ)を受けたことを。6:4 わたしたちは洗礼(バプテスマ)によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。
バプテスマの意味は、罪に支配された古い自分が、十字架にかけられたキリストと共に死んで葬られ、復活されたキリストと共に、新しい命に生きることを表すことなのです。つまり、バプテスマとは、救いとはどのようなものであるか、そのことを救いにあずかった者が身をもって表すことなのです。
話は戻りまして、死者のためのバプテスマ。これを行っているキリスト教会があるのか、調べてみましたが、私の知る限りでは、いろいろな教派、教会の中にはありませんでした。この聖書個所に書いてあるように、当時、コリントの教会の中では、死者のためのバプテスマが行われていたのかもしれませんが、そのうちに行われなくなっていったのでしょうか?そもそもバプテスマというのは、誰かの代わりに受けるというようなものではありません。信じたその人、本人が受けるものです。亡くなった家族の救いについては、気になるかもしれません。けれども、そのことは、究極的には私たち人間には、はかり知ることのできない、人間の思いを超えたことです。私たちができることは、そのことを神さまのみ手に委ねていくということではないでしょうか。
(聖書から)
お読みしました29節で、パウロが「死者のためのバプテスマ」の話を持ち出しているのは、死者の復活を信じないのに、これを行っていた人たちがいたため、なぜ、死者の復活を信じていないのに、そのようなことを行っているのか?と問うているのです。
そして、これに続いて、パウロは、もう一つのことをコリントの教会の人たちに問いかけています。
15:30 また、なぜわたしたちはいつも危険を冒しているのですか。
この「いつも危険を冒している」というのは、キリストを信じるということを言っています。キリストを信じるということは、危険を冒すこと。このように言いますと、驚かれる方があるかもしれません。
この手紙が書かれた当時、キリストを信じることによって、命の危険にさらされるようなことになったのです。キリストを信じる者が迫害される。そういう時代であったのです。今の時代、この日本においては、キリストを信じることによって命の危険にさらされるようなことはないかもしれませんが、国によっては、キリストを信じることで迫害を受けたり、命の危険に脅かされたりしているところもあります。私たちは苦しみにあるキリスト者たちが守られるように祈りたいと思います。
そのようなことを知ると、このパウロの言葉、「なぜわたしたちはいつも危険を冒しているのですか」。これは大変重たい言葉として聞こえてきます。危険にさらされるようなことになるのなら、キリストを信じる必要があるのだろうか?迫害の苦しみの中で、そのようなことを考えた人たちもいたと思います。日本の教会も第二次大戦中には、迫害の苦しみにあったことを知っています。戦後になって、戦時下にあった日本の教会が果たして、本当に信仰を貫けただろうか?そういう問いかけを受けましたが、その時代を生きたキリスト者たちの苦しみを思う時、知る時、私たちが簡単には裁くことはできないと思います。
31節をお読みします。
15:31 兄弟たち、わたしたちの主キリスト・イエスに結ばれてわたしが持つ、あなたがたに対する誇りにかけて言えば、わたしは日々死んでいます。
パウロは、このように言いました。「わたしは日々死んでいます」。今回の説教題に付けた言葉です。私は日々死んでいる。パウロも、パウロが手書きを書き送ったコリントの教会も、毎日が死ぬような思いだったのだと思います。いつ迫害によって、命の危機にさらされるかもしれない、そういう恐れを持ちながら、一日一日を生きていたのだと思います。一期一会、これが地上の生涯の最期の礼拝かもしれない。そういう思いで礼拝に出席した人たち、信仰生活を歩んだ人たちがいたことでしょう。
「わたしは日々死んでいます」。パウロは、自分がいつ死ぬか分からない。そういう思いをもって、日々を歩んでいた、生きていたと思いますが、もう一つの意味で、この言葉を語ったのではないかと思うのです。先ほど、ローマの信徒への手紙の言葉を読みましたが、そこにこのようなことが書かれていました。
「わたしたちは洗礼(バプテスマ)によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです」(ローマ6章4節)。日々死ぬということ、それは、日々、罪に支配された古い自分に死ぬということです。しかし、それは決して、悲観的なことではありません。古い自分に死ぬことによって、私たちは新しい命に生きる。キリストと共にある新しい自分として生きることになるからです。そのことは、コリントの信徒への手紙二4章16節からの言葉にも示されています(二コリント4章16~18節)。
4:16 だから、わたしたちは落胆しません。たとえわたしたちの「外なる人」は衰えていくとしても、わたしたちの「内なる人」は日々新たにされていきます。4:17 わたしたちの一時の軽い艱難は、比べものにならないほど重みのある永遠の栄光をもたらしてくれます。4:18 わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。
世にある苦しみについて、「わたしたちの一時の軽い艱難」と言い表しているのが印象的です。私たちの苦しみというものは、決して軽いものとは言えないものでしょう。しかし、「比べものにならないほど重みのある永遠の栄光をもたらしてくれます」とありましたように、大きな希望が私たちを待ち受けているということが言われているのです。
(むすび)
34節をお読みします。
15:34 正気になって身を正しなさい。罪を犯してはならない。神について何も知らない人がいるからです。わたしがこう言うのは、あなたがたを恥じ入らせるためです。
32節に「食べたり飲んだりしようではないか。どうせ明日は死ぬ身ではないか」とありました。これは、復活の希望、終わりの日の希望を持たない人たちの生き方です。刹那主義、その日その日を思いのままに、欲望のままに生きていこうという生き方です。しかし、それに対して、「正気になって身を正しなさい。罪を犯してはならない」とパウロは語ります。「正気になって」というのは、直訳的には、目を覚まして、ということです。復活の希望、終わりの日の希望を知らないというのは、神さまの愛、神さまの恵みに対して、眠っているような状態です。だから、目を覚ましていなさい、神さまの愛、神さまの恵みに目を向けて歩みなさい、とパウロは語るのです。神さまの愛、神さまの恵みを見つめていく時、私たちの生き方は変わる、生活は変わるのです。
祈り
恵み深い主なる神さま
パウロは「わたしは日々死んでいます」と語りました。その言葉を通して、パウロたちが迫害下にあって、どんなにキリストを伝えることに苦労したかを想像します。
しかし、パウロの「日々死んでいます」は、日々、死ぬような思いをしている、ということに留まらず、死で終わらない復活の信仰の希望に基づいて語られたことであったことを知らされます。
私たちも目を覚まして、神さまの愛と恵みに目を向けて、歩む者としてください。
私たちの救い主イエス・キリストのみ名によってお祈りします。 アーメン
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