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新しい革袋 マタイによる福音書9章14~17節 2023/10/01/SUN.

「新しい革袋」マタイによる福音書9章14~17節 2023/10/01/SUN. 赤塚教会礼拝説教(朝・夕)

聖書―マタイによる福音書9章14~17節
(はじめに)
 今日お読みしました聖書の中に、ヨハネの弟子たちがイエスさまのところに来て、こういう質問をしたことが書かれていました。「わたしたちとファリサイ派の人々はよく断食しているのに、なぜ、あなたの弟子たちは断食しないのですか」(14節)。
 この時、イエスさまは何をなさっていたかというと、お読みしました聖書個所の少し前に書いてあります。10節に「イエスがその家で食事をしておられたときのことである。徴税人や罪人も大勢やって来て、イエスや弟子たちと同席していた」と書かれています。イエスさまは、徴税人や罪人、その人たちというのは、当時、ユダヤの人たちから、罪人と言われていた人たちです。彼らと一緒に食事をしていた、ということです。
 それを見ていた人たちがいました。ファリサイ派の人たちです。この人たちは、イエスさまの食事の様子を見て、イエスさまの弟子たちにこのように言いました。「なぜ、あなたたちの先生は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」(11節)。
 ファリサイ派の人たちは、イエスさまが人々から罪人と言われていた人たちと一緒に食事をすることが納得できなかったようです。それで、イエスさまの弟子たちに向かって、あなたたちの先生があんな人たちと一緒に食事をするなんて、とんでもないことです!とでも言いたかったようです。
 ちなみに、ファリサイ派のファリサイという言葉は、「分離する」という言葉からきています。その名前が示すように、私たちはあの人たちとは違う。私たちは、神さまの律法を守っている。正しく生きている。しかし、あの人たちはそうではない。そうやって、人を裁いていた人たちだったようです。

(聖書から)
 さて、今日の聖書個所ですが、「そのころ」(14節)という言葉から始まっています。これは、「その時」(聖書協会共同訳)と訳すことができる言葉です。罪人と言われている人たちと一緒に食事をしているイエスさまに向かって、今度は、ヨハネの弟子たちが質問したのです。
 ここに出てくるヨハネの弟子たちというのは、バプテスマのヨハネの弟子たちのことです。彼らもファリサイ派の人たちと同じく、大変真面目に、神さまの律法を守っていた人たちでした。そのヨハネの弟子たちが、イエスさまに問うた質問というのは、私たちも、ファリサイ派の人たちも、よく断食をしているのに、なぜ、あなたの弟子たちは断食をしないのですか?ということでした。
 断食というと、皆さんの中には、断食をされる方がいるかもしれません。しかしそれは宗教的、信仰的な理由ではなくて、ダイエット、健康や美容のためではないでしょうか。ここでヨハネの弟子たちが言っている断食とは、宗教的、信仰的な意味の断食です。信仰熱心なユダヤ人の場合、週に二度の断食をしたそうです。また断食の意味は、罪を嘆き悲しみ、悔い改めるためでした。ところが、イエスさまと弟子たちは、罪人と言われる人たちと楽しく食事をしていました。そういうイエスさまと弟子たちに向かって、あなたがたはなぜ、断食をしないのか?と尋ねたのです。
 イエスさまは、彼らにお答えになりました。15節から、イエスさまの言葉が書かれています。まず、イエスさまが言われたのはこういうことでした。「花婿が一緒にいる間、婚礼の客は悲しむことができるだろうか」(15節前半)。ここでいきなり、花婿とか、婚礼ということを言われても、分かりにくいですが、花婿というのは、イエスさまご自身のことです。花婿が一緒にいる、とは、イエスさまが一緒にいる、ということです。
 私たちは、イエスさまを、私の救い主、神の子と信じています。イエスさまは、私たちを罪から救うために、おいでくださいました。私たちは、イエスさまを自分の心に、人生にお迎えして、イエスさまと一緒に歩んでいる。そう信じています。
 「花婿が一緒にいる間」。私たちも、今、このイエスさまの言葉を体験しているのです。花婿であるイエスさまと一緒にいる。花婿はイエスさまということですが、花嫁は誰のことでしょうか?花嫁、それは、私たち教会のことです。
 エフェソの信徒への手紙5章21~33節の言葉は、「妻と夫」という小見出しが付けられていますように、妻と夫のことが語られていますが、32節には、「わたしは、キリストと教会について述べているのです」とあります。夫と妻の話に絡めて、夫であるキリスト、妻である教会のことを語っているのです。
 イエスさまが一緒にいる。その時、私たちはどうするでしょうか?「婚礼の客は悲しむことができるだろうか」とあります。ここで悲しむ、というのは、断食のことです。けれども花婿と花嫁が一緒にいる間というのは、悲しみの時ではありません。それは喜びの時です。私たちは、今、イエスさまと一緒です。それは、悲しみでしょうか?いいえ、喜びです。この礼拝も、婚礼のようなものです。英語では、セレブレーション、お祝いの時です。みんなで一緒にイエスさまを喜び祝う。イエスさまに心からの賛美をささげていくのです。
イエスさまは、続けて、このようにも語られました。「しかし、花婿が奪い取られる時が来る。そのとき、彼らは断食することになる」(15節後半)。先ほども言いましたように、花婿とは、イエスさまのことです。そのイエスさまが奪い取られる時が来る。これは、イエスさまが私たちを罪から救うために、十字架におかかりになり、死なれることを意味しています。私たちは、イエスさまの十字架の意味を知る時、この私の罪のために主は死んでくださった。自分の罪を嘆き悲しみ、悔い改めに導かれます。
そして、イエスさまは、このようなことを語られました。
「だれも、織りたての布から布切れを取って、古い服に継ぎを当てたりはしない。新しい布切れが服を引き裂き、破れはいっそうひどくなるからだ。新しいぶどう酒を古い革袋に入れる者はいない。そんなことをすれば、革袋は破れ、ぶどう酒は流れ出て、革袋もだめになる。新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ。そうすれば、両方とも長もちする」(16、17節)。
織立ての布切れで古い服に継ぎを当てることはしない。織り立ての、つまり、新しい布切れの方が強くて、丈夫ですから、古い服を引き裂いてしまいます。また、新しいぶどう酒というのは、よく発酵していますから、古い革袋に入れてしまうと、革袋が破れてしまいます。ですから、古い革袋ではなく、新しい革袋を用意して、そこに新しいぶどう酒を入れます。
これは、何をおっしゃりたいのか、と言いますと、古いものと新しいものは相容れない、ということです。ファリサイ派の人たちの信仰、バプテスマのヨハネの弟子たちの信仰というのは、それぞれ真面目な、真剣な信仰であったでしょう。断食もよく行っていた、ということでしたが、先ほども言いましたように、自分の罪を知り、嘆き悲しむこと、悔い改めることです。これは、とても大事なことです。否定されるものではありません。
けれども、それは古い信仰なのです。それに対して、イエスさまは、新しい信仰を示されました。新しい信仰、それは、自分の罪に嘆き悲しむだけで終わらないのです。イエスさまが、私たちを罪から救い、新しく生きることができるように導いてくださる、という信仰です。
新しい布切れで、古い服に継ぎ当ててはなりません。そうすると、服は引き裂かれてしまいます。新しいぶどう酒を古い革袋に入れてはなりません。そうすると、革袋は破れてしまいます。ではどうしたらよいのか、というと、新しい革袋を用意するのです。イエスさまという新しいぶどう酒を受け入れるために、私たちは新しい革袋を用意してイエスさまを受け入れるのです。

(むすび)
 古い革袋、それは、この聖書の個所では、ファリサイ派の信仰とか、バプテスマのヨハネの弟子たちの信仰と考えることができますが、私たちのことで考えますと、イエスさまを知る前の、イエスさまを信じる前の私たちの生き方、価値観ということになるでしょう。私たちは、イエスさまを信じた、と言っても、私たち自身が日々、変わらなければならない、新しくならなければならないのです。
 もしも、ファリサイ派の人たちが、古い革袋のままで、つまり、自分たちは変わらないで、イエスさまを信じたらどうなるか、というと、もっともっと人々を裁くでしょう。私たちはイエスさまを信じている。私たちはイエスさまと一緒にいる。だから、正しい者なのだ。イエスさまを自分たちの正しさの権威付けにしてしまう。そして、あなたたちはイエスさまを信じていない。そう言って、イエスさまを信じていない人たちのことを裁いていくのではないでしょうか。
 私たちは、自分自身が古い革袋から新しい革袋にならなければならない、自分自身が変わらなければならないのです。イエスさまはこう言われました。「神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである」(ヨハネ3章17節)。イエスさまは、世を、私たちを裁くためではなく、救うため、愛するためにおいでになったのです。
 自分自身が新しい革袋になるように、自分が変わらなければならない、新しくならなければならない、と言いましたが、これは自分の努力ではできません。どうしたら、変わることができるのか、新しくなれるのかというと、日々、イエスさまに出会うこと、イエスさまの愛に触れることです。教会生活で大事なこととして、聖書を読むとか、祈るということが勧められますが、それもイエスさまに出会うため、イエスさまの愛を知るためなのです。そして、そのことによって、イエスさまによって、私たちは変えられていくのです、新しくされていくのです。今日も、明日も、イエスさまと一緒に歩んでいきましょう。

祈り
恵み深い私たちの主なる神さま
  私たちに救い主イエス・キリストをお送りくださいまして、感謝します。この方が私たちを罪から救い、新しい人生へ、新しい命に生きることを導いてくださいますから感謝します。
新しいぶどう酒は新しい革袋に、と主は語られました。古い革袋は、固く、すぐに張り裂けてしまいます。私たちの心もそのような状態でした。神さまの前に、固い心、すぐに張り裂けてしまう心、それが私たちでした。しかし、主の愛に触れると、私たちは変えられます。新しい革袋のような心、柔らかい、へりくだった心、愛する心、赦し合う心、そのような者へと導いてください。
 私たちの救い主イエス・キリストのみ名によってお祈りします。 アーメン

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