【礼拝説教】2023年7月2日「私たちをいやす方」
聖書―マタイによる福音書8章14~17節
(はじめに)
イエスさまが山の上で人々に神さまの言葉を語られた。それが「山上の説教」と言われる説教です。説教を終えられたイエスさまは、山を下りられましたが、その説教を聞いた人たちも一緒に山を下りられました。この山の上というのは、私たちにとっては、毎週の日曜日のことと考えることができます。教会に集まって、一緒に聖書を学ぶ、聖書に聞く。教会学校、礼拝、それが終わったら、私たちは日常の生活に戻ります。山を下りるというのも、同じです。イエスさまと人々は日常の生活に戻りました。
日常の生活。そこは、あの山の上で聞いた説教、教会で学んだ聖書の言葉、それとはまったく無関係の世界でしょうか?いいえ、そうではありません。山を下りたイエスさまと人々、そのすぐ後には、このような言葉が書かれています。「すると」(2節)。山上の説教は山を下りたことで途切れたのではありません。山上の説教は、イエスさまの言葉は続いているのです。そして、一人の重い皮膚病を患っている人がイエスさまのところにやって来ました。その後には、イエスさまは、カファルナウムでローマの百人隊長に出会います。この人は、自分の僕が中風で寝込んでいた、ということです。
このように見ていきますと、山上の説教のすぐ後には、イエスさまが、そして、神さまの言葉がどのように、日常の生活の中で生きて働いておられるのかが示されていることが分かります。私たちも毎週の日曜日、教会に集い、神さまを礼拝し、神さまの言葉を分かち合い、家路に戻る。そして、これから、イエスさまが、神さまの言葉が私たちの日常で、私たちを通して、私たちを用いて、どのように生きて働かれるのか、そのことを期待していきたいと思うのです。
(聖書から)
今日お読みしました聖書の個所、ここもカファルナウムでの出来事が書かれています。14節を読んでみましょう。
8:14 イエスはペトロの家に行き、そのしゅうとめが熱を出して寝込んでいるのを御覧になった。
イエスさまは、ご自分の弟子の一人、ペトロの家に行ったことが書かれています。ペトロはイエスさまの最初の弟子と言える人物でした。その場面を思い起こしてみましょう(4章18~20節)。
4:18 イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、二人の兄弟、ペトロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレが、湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった。4:19 イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。4:20 二人はすぐに網を捨てて従った。
お読みしました聖書個所は、イエスさまが最初の弟子たちをお招きになった場面です。ここには、「二人の兄弟、ペトロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレ」とあります。シモンとアンデレ、この二人がイエスさまの最初の弟子でした。シモンについては、「ペトロと呼ばれるシモン」と書いてあります。シモンという名の人物のあだ名、それがペトロです。別の聖書個所では、「イエスは彼を見つめて、「あなたはヨハネの子シモンであるが、ケファ――『岩』という意味――と呼ぶことにする」と言われた」(ヨハネ1章42節)とあります。新約聖書は、ギリシア語で書かれていますが、イエスさまが実際に使っておられた言葉はアラム語、ヘブライ語であると言われています。ケファというのは、アラム語で、ペトロというのは、ギリシア語です。イエスさまはシモンのことを岩、石というあだ名で呼んだのです。石というと、私の苗字は石堂です。石ということでは、ペトロに対して、親しみを感じます。
ところで、イエスさまはなぜ、シモンのことを岩とか石というあだ名を付けたのでしょうか?岩や石のようにガチガチの性格であるとか、頑固者であるとか、堅物であるというような意味で付けたのでしょうか?確かに聖書から、ペトロの人となりを見ていきますと、激しやすいとか、短絡的であるとか、欠点だらけのように思えますが、聖書の中でイエスさまがペトロというあだ名を付けた意味が書いてあるのか、調べてみました。すると、こういう聖書個所がありました。「あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる」(16章18節)。
これはイエスさまがペトロに語られた言葉です。ペトロはイエスさまから、あなたは私のことを誰だと思っているのか?と尋ねられて、こう答えたのです。「あなたはメシア、生ける神の子です」(16章16節)。メシアというのは、ヘブライ語で救い主という意味です。ギリシア語では、キリストと言います。あなたはキリスト、救い主です!生ける神の子です!このようにペトロは答えたのです。
ペトロという人は、一緒に歩んできた方が救い主だと、自分で悟ったのでしょうか?そうだとするならば、ペトロは鋭い感性、霊性の持ち主だったのでしょうか?イエスさまは、ペトロにこう言われました。「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ」(16章17節)。バルヨナというのは、ヨナの息子という意味です。シモンのお父さんはヨナという名前の人だったようです。ヨナの子シモンよ、あなたが私のことを救い主と告白することができたのは、あなたの悟りとか、力ではない。天の神さまがあなたに告白させたのだ、と言われたのです。
これは、私たちも同じです。私たちは、自分で聖書を深く研究して、勉強して、イエスは救い主だ、神だ、と理解した、認めた、というのではありません。イエスさまがペトロに言われたように、神さまが、イエスさまは救い主と信じることができるように導いてくださったのです。神さまが私たちに信仰を与えてくださったのです。私たちは、自分の愛する家族、友人の救いのために祈っていますが、神さまが信仰を与えてください、イエスさまを救い主と信じることができるように導いてください、と祈っていくのです。神さまの送ってくださった聖霊の働きによって、信じることができるように祈りましょう。
今日は、ペトロの話で長くなってしまいましたが、そのペトロの家にイエスさまがおいでなりました。すると、ペトロのしゅうとめが熱を出して寝込んでいた、ということです。イエスさまはペトロのしゅうとめをどうされたかというと、その手に触れられて癒されました。15節をお読みします。
8:15 イエスがその手に触れられると、熱は去り、しゅうとめは起き上がってイエスをもてなした。
癒されたしゅうとめの様子を見ていきますと、「しゅうとめは起き上がってイエスをもてなした」とあります。起き上がった、というのです。この起き上がる、という言葉は、死者の中から復活する、という言葉と同じ言葉が使われています。イエスさまに癒された。このしゅうとめは、体が癒されただけではなくて、この人の人生も癒された、起き上がらされ、新しくされた、ということで考えることができます。
ペトロのしゅうとめは、イエスさまをもてなしました。しかし、このイエスさまをもてなした、という言葉は、直訳的には、イエスさまに仕えた、という言葉です。イエスさまがお客さんとしておいでになったから、お茶を出したり、食事を出して、おもてなしをした。それだけの意味ではなくて、イエスさまによって癒されたペトロのしゅうとめは、それ以来、イエスさまにお仕えする人になった。もっと言うと、イエスさまの弟子になった、ということです。
この後もイエスさまの癒しの働きは続きます。16、17節をお読みします。
8:16 夕方になると、人々は悪霊に取りつかれた者を大勢連れて来た。イエスは言葉で悪霊を追い出し、病人を皆いやされた。8:17 それは、預言者イザヤを通して言われていたことが実現するためであった。「彼はわたしたちの患いを負い、/わたしたちの病を担った。」
イエスさまは悪霊に取りつかれた人を癒された、ということです。ここで注目したいのは、イエスさまは、どうやって、悪霊を追い出し、癒されたか、というと、言葉で悪霊を追い出し、癒された、というのです。イエスさまの言葉は、そういう力のある言葉なのです。悪霊というのは、神さまから私たちを引き離す力、働きを持つものです。そして、私たちに希望を失わせ、喜びを失わせます。しかし、私たちはイエスさまの言葉を聞くのです。すると、私たちの心を支配していたものが追い出される、そして、癒されるのです。イエスさまの言葉を聞いていきましょう。17節には、イザヤ書の言葉が引用されています。これは、イエスさまのなさったことは、聖書の言葉の実現であったことが示されているのです。
(むすび)
今日は、前半で、シモン・ペトロの話をしました。ペトロというのは、繰り返しますが、岩とか石という意味です。イエスさまは、ペトロに、こう言われました。「イエスは彼を見つめて、「あなたはヨハネの子シモンであるが、ケファ――『岩』という意味――と呼ぶことにする」と言われた」。そして、その信仰告白を聞いて、こうも言われました。「あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる」。「この岩の上に」とは、どういう意味でしょうか?イエスさまは、ペトロ、あなたは、私を救い主、神の子と告白した。その信仰告白に基づいて、私の教会を建てます、と言われたのです。そして、今、イエスさまは、私たちに向かっても言われているのです。あなたがたは、私を救い主、神の子と告白した。その信仰告白、みんなの信仰告白に基づいて、私の教会を建てます!これを聞くと、イエスさま、私のような信仰で、大丈夫なのですか?と思われる方があるかもしれません。
ペトロの信仰告白について考えてみましょう。ペトロという人自身は、岩や石とあだ名されるような人でした。それは、決して、立派だとか、素晴らしいという意味ではなかったと思います。むしろ、岩や石のようなゴツゴツした、不器用な、不十分な人であったと思います。しかし、その信仰告白をイエスさまは受け止めてくださって、そこに教会を建てる、と言われたのです。私たちは、ついつい、自分と他者を比較して、あの教会の方が、あの信徒の方が、私よりも立派だ、私は足りない、私はダメだ、と考えてしまうかもしれません。けれども、イエスさまは、そういう私たちの信仰告白に基づいて、私の教会をここに建てた!と言っておられるのです。ですから、私たちはそのことを喜んでいきたい、感謝していきたい。そして、その恵みに応えていきたいと思うのです。イエスさまがこの私に語ってくださった言葉をしっかりと受け止めていきましょう。
祈り
恵み深い主なる神さま
イエスさまが山の上で説教をされた後も、イエスさまの語られた言葉、神さまの言葉は、人々の日常において、生きて働かれ、そのことによって、人々は癒され、起き上がらされ、主に仕える者とされたことが書かれていました。
私たちもこの日曜日、教会から新しい週の歩みが始まります。私たちの日常においても、主が共におられ、主の言葉が生きて働かれることを信じて歩ませてください。
私たちの救い主イエス・キリストのみ名によってお祈りします。 アーメン
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