【礼拝説教】2023年7月16日「復活の体」
聖書―コリントの信徒への手紙一15章35~49節
(はじめに)
聖書が教える信仰は、復活信仰、キリストが復活したように、私たちも復活するという信仰です。お読みしました聖書の中に、その復活について、疑問を持った人たちがいたことが書かれています。35節をお読みします。
15:35 しかし、死者はどんなふうに復活するのか、どんな体で来るのか、と聞く者がいるかもしれません。
「死者はどんなふうに復活するのか、どんな体で来るのか」。これは私たちも持つ疑問です。聖書には、キリストが復活したように、私たちも復活すると書いてあるけれど、どんなふうに復活するのだろうか?どんな体で来るのだろうか?これに対して、パウロは、答えていきます。それが、36節から書かれている内容です。
(聖書から)
36節の言葉をお読みします。
15:36 愚かな人だ。あなたが蒔くものは、死ななければ命を得ないではありませんか。
いきなり、「愚かな人だ」とパウロは言います。何が愚かなのでしょうか。この後に、このような言葉が続きます。「あなたが蒔くものは、死ななければ命を得ないではありませんか」。ここに「蒔くもの」とあります。種を蒔くということが言われているのです。種はそのままでは、何もなりません。蒔かなければなりません。そのことをパウロはこう言っています。「死ななければ命を得ないではありませんか」。
この言葉とよく似た言葉が聖書の別の個所にあります(ヨハネ12章24節)。
12:24 はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。
これはイエスさまが語られた言葉です。「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」。種は蒔かれなければ、種のままです。しかし、蒔かれるなら、多くの実を結びます。種の話を通して、イエスさまはあることを語られたのです。同じヨハネによる福音書12章25節を読むと、その意味が分かります(ヨハネ12章25節)。
12:25 自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。
「自分の命を愛する者」。これを文字通り読むなら、良い意味で理解できます。自分の命を愛する、大切にする。しかし、ここで言われているのは、反対の意味なのです。自分のことしか考えない。利己的な、自己中心的な生き方、あり方を意味しています。それに対して、「この世で自分の命を憎む人」。それは、自分の命を愛さない、大切にしない、ということではありません。自分の命を神さまのために、他者のために用いていくということです。それが永遠の命に至る道だというのです。
種を蒔く生き方、そのことについて、イエスさまは語られました。種を蒔くということ。それは死ぬということです。自分に死ぬ(自己中心の生き方、利己的な生き方をやめる)ということ、神さまのために、他者のために生きるということです。そして、今日の個所でも、パウロは「あなたが蒔くものは、死ななければ命を得ないではありませんか」と言っています。
この後、パウロは、復活の体について、説明を続けていますが、42節以下を読んでみましょう。
15:42 死者の復活もこれと同じです。蒔かれるときは朽ちるものでも、朽ちないものに復活し、15:43 蒔かれるときは卑しいものでも、輝かしいものに復活し、蒔かれるときには弱いものでも、力強いものに復活するのです。
「蒔かれるときは朽ちるもの」。それは死んだら朽ちる、ということです。私たちの体は永遠ではありません。やがて地上の生涯を終えて、その肉体は朽ち果ててしまいます。しかし、そこで終わりではありません。「朽ちないものに復活し」とあります。これに続いて、「蒔かれるときは卑しいものでも、輝かしいものに復活し」、「蒔かれるときには弱いものでも、力強いものに復活する」というのです。私たちは朽ちないもの、輝かしいもの、力強いものに復活する。それは神さまの永遠、神さまの栄光、神さまの力にあずかる者とされるということです。
復活の体について、44節にもこのように書かれています。
15:44 つまり、自然の命の体が蒔かれて、霊の体が復活するのです。自然の命の体があるのですから、霊の体もあるわけです。
「自然の命の体」(口語訳では「肉のからだ」)というのは、私たちの今持っている体のことです。それが蒔かれて、死んで、「霊の体」として復活するというのです。
45節をお読みします。
15:45 「最初の人アダムは命のある生き物となった」と書いてありますが、最後のアダムは命を与える霊となったのです。
今、教会学校では、創世記を学んでいます。「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった」(創世記2章7節)という言葉がありますが、私たち人間は、神さまから命の息を吹き入れられて生きる者となりました。私たちは、神さまによって命与えられた者なのです。しかし、私たちは、この世を永遠に生き続ける者ではありません。いつかは死ぬ者です。そういう私たちについて、45節には、「最後のアダムは命を与える霊となった」とあります。この「最後のアダム」とは、イエス・キリストを指しています。イエス・キリストが私たちに永遠の命を与えるということが言われているのです。
そして、46節です。
15:46 最初に霊の体があったのではありません。自然の命の体があり、次いで霊の体があるのです。
46節には、自然の命の体、肉の体があり、それが蒔かれて、死んで、霊の体がある、ということが言われています。
(むすび)
15:47 最初の人は土ででき、地に属する者であり、第二の人は天に属する者です。15:48 土からできた者たちはすべて、土からできたその人に等しく、天に属する者たちはすべて、天に属するその人に等しいのです。15:49 わたしたちは、土からできたその人の似姿となっているように、天に属するその人の似姿にもなるのです。
パウロは、自然の命の体を持つ人のことを「地に属する者」と言い、霊の体を持つ人のことを「天に属する者」と言っています。私たちは、この世、この地上では、それにふさわしい体で生きているわけですが、死んだ後には、天の国にふさわしい体が用意されるというのです。
今日お読みしました最後の49節に「土からできたその人の似姿」、そして、「天に属するその人の似姿」とありました。「土からできたその人」とは、神さまに最初に造られた人アダムのことです。そして、「天に属するその人」とはイエスさまのことです。ですから、ここで言われていることは、私たちが最初の人アダムに似た者であったのが、イエスさまに似た者となっていく、ということです。このことについて、パウロはコリントの信徒への手紙二3章18節でこのように語っています。
3:18 わたしたちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。これは主の霊の働きによることです。
今、私たちは自然の命の体、肉の体を持って生きていますが、死んだ後に与えられる復活の体というのは、「天に属するその人の似姿」とありましたように、イエスさまに似た者ということです。私たちは、もうすでにそのための用意をしているのです。イエスさまに従っていく、イエスさまと一緒に歩む。それは、復活の体に向けての、天の国に向けての準備、備えなのです。そのことを知る時、私たちの信仰生活は決して無駄ではないことが分かります。前にも読みましたが、改めてこの言葉を読んで終わりたいと思います。
15:58 わたしの愛する兄弟たち、こういうわけですから、動かされないようにしっかり立ち、主の業に常に励みなさい。主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならないことを、あなたがたは知っているはずです。
祈り
恵み深い主なる神さま
イエスさまは復活されました。そして、私たちにも復活の希望が与えられていることを感謝します。
パウロは復活について、種を蒔くことで説明しましたが、主は、種を蒔くことで実を結ぶと語られました。私たちの歩みは、日々、種を蒔く歩みです。信仰の実りが結ばれますように、天に向かっての備えができますように。
私たちの救い主イエス・キリストのみ名によってお祈りします。 アーメン
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